凪いだ海に落とした魔法は 3話-64
「シノ。あなたからやれば」と日下部が言う。
「何故僕なんだ」
「まずは男で実験しないと」
「なら沢崎だ」
「別に俺でもいいが、日下部沙耶直々のご指名を無視する理由もないよな」
「犬が主人に逆らうの?」
「沙耶の機嫌を損ねたら、この集まりは本末転倒よね」
三対一。数的不利を覆すのは難しそうだった。
「了解。僕からやるよ。やればいいんだろ。たかがピアスホールを開けるだけだ。小指を切り落とすわけじゃない」
自分で買った千円もしないピアッサーを取り出して、僕は小さく溜め息をついた。
薬用石鹸で左の耳を念入りに消毒してから、無菌ペンで耳たぶにマークを付ける。そしてカプセルの間に耳たぶを挟み、マークの位置と合っているか確認してもらった。
「直角になってる?」
「大丈夫」と日下部が応えた。
「そのままハンドルを押せばいいみたいだぞ。バネ式だから、ファーストピアスが飛び出して耳たぶをグサっと貫くからよ」
「わあ、痛そうっ!」
「グサッといくぜ。グサッと」
「ぞくっとするねっ!」
何やら沢崎と白川が僕に恐怖を植え付けようとやあやあ騒いでいるが、アホには付き合っていられない。もはや信じる者は日下部のみだ。
「よし」と短く決意表明。日下部が静止画みたいにじっと僕の耳を見詰めている。
意を決してハンドルを押し込むと、「ガチャン」と音が鳴って、耳たぶに鈍い振動が走る。
「どう?」と日下部が訊いた。
「別に痛くはないよ。血、出てる?」
視線だけは一点をじっと見詰めたまま、日下部はかぶりを振った。
「不思議ね。体の器官を貫通してるのに、痛くもないし出血もしないなんて」
「まあ、痛覚の鈍い部分だしね」「何だよ。面白味のないリアクションだな」
「あっさり終わっちゃったね〜」
何を期待していたというのか、この二人は。僕が苦痛と恐怖に泣き喚く姿でも見たかったのだろうか。
「これ、一ヶ月は外せないのよね」と日下部が言った。
「そうみたいだね。固まらないように回してみたり、定期的に消毒する必要もあるみたいだ」
僕は人差し指でピアスをちょんと触った。痛みはないが、不思議な異物感がある。体の一部が自分の物ではなくなった感じ。
「じゃあ、次は私がやる」
「あ、そう」
「シノ、消毒してくれる」
ピアッサーを観察しながら、日下部は目も合わせずにサラッとそんなことを言った。「それ取ってくれる」とでも言うような気軽さで。
「僕が?」
「何。嫌だっていうの?」
「別に構わない、けどさ」
「ならお願い」
日下部は髪をかき上げ、ツンと尖った耳を露にさせた。薬用石鹸を付けたガーゼを手に近付くと、雪で染めたような白いうなじが視界に映る。見た目で張りを感じさせる滑らかな肌に、僕は内心でどぎまぎしながらも彼女の耳を丹念に拭いた。貴重な美術品を磨いているようで、緊張する。少しでも粗雑に扱えば壊れてしまいそうな気さえした。