凪いだ海に落とした魔法は 3話-61
外の世界には夏の爽やかな光が満ちていた。内側の世界には夏の午後特有の倦怠感が渦巻いている。外も内も同じ春なのに、一体この対比は何なのだろうと僕は考える。
石岡という名前の教師が、生徒の誰もが自分の金科玉条を欲しているのだと盲信した様子で口角泡を飛ばしていた。首はなきに等しく、手足も短く、そのくせ腹だけは極端に膨れていて、まるで過度な寵愛を受けて育ったハムスターみたいな教師だった。彼の激しい弁舌はカロリーを消費しないのだろうか。
僕は前の席に座った日下部の背中を眺めていた。
黒曜石のように艶のある黒髪の下に、パリッと糊の効いた白いブラウス。さらにその下には、トレードマークみたいな存在感で、黒いブラジャーが仄かに透けて見えていた。
日下部は頬杖を付きながら、かったるそうに教科書をめくっているが、授業など聞いてはいないのだろう。ファッション雑誌を流し読みするような速さで教科書をめくる必要なんてないのだ。
僕は日下部の後ろ姿をぼうっと見詰めながら、昨日の会話を思い出していた。そうなれば自然と彼女の恋について思いを巡らせることにもなるわけで、その感傷は僕を酷く心許ない気分にさせた。
日下部沙耶が、そこら辺の女子みたいに恋をする姿。
脳裏に描いたイメージはどうにもしっくりとこなかった。フランス人の話す中国語みたいにしっくりとこない。
ましてや、その相手が僕である想像なんて、木星人にそっくりな火星人をイメージするようなものだった。創造力の範疇を越えた幻想。わけも分からず溜め息をつきそうになる。
石岡は相変わらず彼の世界でしか通じない奇妙な言語で語り続けていた。50分間、倒壊したダムの流水の如く喋り続けるその気力は買うが、伝わらなければ意味がないという肝心なことを彼は忘れていた。
授業終了を知らせるチャイムが鳴り終わっても、彼の弁舌はまだ続く。教室中の生徒が苛々して、何処からか舌打ちまで聞こえてくる始末。三分ほど授業を延長してから、ようやく僕たちは解放された。
クラスメートたちは無駄に差し引かれた貴重な休憩時間を、トイレに行ったり三々五々に集まって談笑に興じたりと、様々な方法で消費している。僕は何となく、椅子にもたれたまま日下部の後ろ姿をぼんやり眺めていた。
「ねえ、志野くんさあ」
いつの間にいたのだろう。白川が、隣の机に腰をもたせかけて、含みのある笑い方をしながらこちらを見下ろしていた。
「沙耶を観察するのが、最近の趣味なの?」
何か言外のことを言いたげに、白川は日下部の背中にちらりと視線を送った。
「ん?」
名前を出された日下部が何事かと振り返る。
「趣味というより、ライフワークかな」と僕は言った。
「きゃあ!」と白川は甲高い声を上げて「ライフワークだって!」と日下部の肩を叩く。冗談に決まっているだろう。
「何よ?」
日下部はうっとうしそうな目で自分の肩をバシバシと叩く手を見つめた。
「志野くん、授業中ずっと沙耶のこと見てるよねって話」
「前を見れば私がいるもの。当然じゃない」
「その通り。変な勘繰りはやめてくれ白川」
「私はただ、志野くんがいつも沙耶のことを見てるよねって話をしただけよ。勘繰りだと思うのは自分でも心当たりがあるからじゃない?」
「それこそ深読みだよ」
「そうかしら」
「そうだよ。というか、白川こそいつも僕のことを見てるのか。席も離れているのに」
「あー。そういう反撃がくるわけかあ」
「そうなるだろ。僕を観察するのが最近の趣味なのか」
「もしそうだとしたら――」と白川は言って、両腕を机に付いてグッと顔を近付けてくる。リンスの甘い香りがした。
「ドキッとする?」彼女は笑った。
「イラッとする」
「なんでえ?」
「ハムスターになった気分。牙のない観察対象」
「何よそれ」
「何だろうね」
「あなたたち、楽しそうね」
日下部が冷淡な眼差しで僕と白川を瞳に収めていた。人間はこんな下らない会話で“楽しい”と思えるのかと、羨望を通り越して呆れを感じているような趣。