凪いだ海に落とした魔法は 3話-60
「俺も志野もフェミニストじゃないからな。女子だからって特別扱いしてくれると思うなよ。俺らには俺らの腹の満たし方がある。日下部はすんなり対応できたぜ」
「まさか、お湯入れて食べるの?」
「生でガリガリ食うのか、お前。個性的な奴だな。別に止めはしないけど、俺らとは離れて食ってくれよ。変人の仲間だと思われると嫌だから」
「そうじゃなくて。普通は家で食べるものでしょ。外で、女の子と、一緒に、カップ麺?」
無粋な男たちの提案に、悄然とした面持ちで白川は肩を落とした。
「嫌ならいいさ。なあ?」
「うん。強制はしない」
「私もそれで構わないよ」
三人の顔を右へ左へと見回して、「仲間外れはもっと嫌」と白川は渋々頷いた。
僕は自室のベッドの上で仰向けになって、眠るわけでもなく、じっと目を閉じていた。時計の針が横着な死神の足音のように緩慢な時を刻んでいる。
「慧を見ていると、何だか自分に対してすごく苛々するの。こんなこと、今まではなかった」
スーパーからの帰り道、二人きりになってから日下部はそんなことを言った。雑草の芽のように、いつのまにか胸中に芽生えた見知らぬ感情の出現に、彼女は戸惑っているようだった。
「――あの娘は、本当に楽しそうに笑うのね」
瞳の奥に懊悩の欠片を覗かせる日下部に対して、僕はかけるべき言葉を失って押し黙っていた。眩しそうに目を細める彼女は、明らかに今までとは様子が違っていた。僕の頭に浮かんだ台詞は、そのどれもが何処からかの借り物みたいに空虚なものばかりだった。それを口にしたところで、彼女を慰めることなんてできやしないのだろう。否。彼女は慰めなんて必要としていなかった。それを分かっていたのに、僕は安易な慰めで彼女の気持ちに踏み入ろうとしたのだ。情けない話じゃないか。
白川は、日下部にないものを持っている。サイコロを転がすみたいに表情をころころと変え、心情の吐露をためらったりはしない。自分の感情に素直で、他人の感情も真っ直ぐに受信する。そういう娘だ。
自分に足りないものを持っている人は、いつだって眩しいものだ。それは時に、目を反らしてしまいたくなるほどに。
それでも日下部は、今まで誰かを羨んだりはしなかった。白川風に言うなら、彼女は“あっち側”の人間だったから。理解不能の異世界人たちが、自分の知らない感情を表に出して笑っていても、彼女には関係のないことなのだ。
でも、白川慧は“こっち側”に入ってきた。彼女は、日下部や沢崎の住まう世界に憧れを抱き、その光に目を反らすどころか飛び込んできた。
今までは理解の及ばない赤の他人だった異邦人が、突如として自分の世界にやってきた。
気付かずに済んでいた光が、今は日下部の瞳を照らしている。彼女はきっと、その眩しさに困惑しているのだろう。
それでも、と僕は思う。それでも日下部は、その輝きを直視しなくてはならないのだ。網膜を焼かれそうになっても、自分の劣等感に押し潰されそうになっても、いつかその光は彼女の行く先を照らしてくれるはずだから。
僕の場合も、そうだった。沢崎と出会ったとき、僕が閉塞感で築き上げた壁を、バカみたいなノリであいつはぶち壊してくれた。自分の価値観とは対極的な思考に僕は圧倒され、その真新しさにどうしようもなく惹かれたのだ。
自分の世界を内側から壊すことはできない。でも、誰かがその中に入ってきたら、意外とその壁は呆気なく崩れるものなのかもしれない。もちろん、それは怖いことでもあり、ずっと独りで生きてきた日下部ならば尚更だろう。
――日下部は、壁を越えることができるだろうか。越えなくては、きっと彼女は“楽しさ”の意味を知ることはできない。
僕にできることは、外側から壁を叩いて、必死に日下部に呼び掛けることくらいだ。けれど、白川がいれば何かが変わるかもしれない。僕に取っての沢崎のような存在に、彼女はなってくれるだろうか。
いつの日か、日下部が新しい世界を創り上げ、その中で“楽しい”という感情の意味を知ったとき。そのときには、日下部も白川の言う“本当の恋”を知ることができるのかもしれない。
僕は四角い空を眺めながら、自然と溜め息を吐いていた。
もしも日下部が恋をするのなら、その相手は僕ではないような気がした。
それは予感の予兆とも言うべき仄かな感覚だったが、暗闇を照らす蝋燭の灯りのように確かな感覚だった。
何故だか急に考えることに嫌気が差して、起き上がり、テレビを付けてバラエティ番組を観る。
タレントたちのありきたりなやり取りでさえ、太古の昔に滅びた難解な言語のようで、まるで僕の頭には入ってこなかった。