凪いだ海に落とした魔法は 3話-51
「しょうがない。じゃあ、私一人でいいかあ」と、彼女はそんなことを言った。
「何だって」
「志野くんに迷惑はかけられないからね。ねえ、彼の連絡先だけ教えてもらえるかな。あと、私に会ってやって欲しいってことだけは伝えてもらえると助かるんだけど。アポイントメントってやつね。それくらいはいいでしょ?」
どうしてそうなった白川慧。お前はもう少し賢い娘じゃなかったのか。僕の買い被りか?
「沢崎が怖くないのか」
「え〜別に。女の子を殴ったりはしないでしょ。流石に」
「金を返してくれるとは思えないぞ」
「まあね。でもこっちは弱味を握ってるわけだし」
「その弱味は君の弱味でもある」
「いざとなったら道連れにするわ。やられっぱなしとか、嫌なの私」
白川慧が不適に笑う。自信に満ち溢れた瞳が爛々と輝いて、それこそ沢崎みたいだった。
「それとも、何か不都合でもあるのかな。志野くんに」
小悪魔めいた微笑。欺き、誘い、暴く。日頃の小動物のような白川慧は、そこにはいなかった。
日下部沙耶が冷酷な一太刀で相手の首を叩き斬るタイプなら、白川慧は、狡猾な罠で相手をなぶり殺しにするタイプだ。
損得勘定のできる女? 沢崎、お前の白川慧に対する評価は間違っていたよ。彼女は、損得よりプライドの保護を優先する人種だ。
「他のやつまで道連れかよ」
「毒を食らわば皿まで。途中でいい子になろうなんて思わないの、私。ずるっ子は最後までずるっ子でいないとね。赤信号、みんなで渡れば怖くない。みんな一緒に牽かれて死ぬならフェアじゃない?」
肩を小刻みに震わせて、彼女はくすくすと笑った。
「本気なんだな?」
「マジよ」
「最悪、停学になっても?」
「一回くらいなってみたいかも」
冗談めかした口調が、罰則を恐れていないことを証明していた。
「僕は困る。沢崎の連絡先は教えられないし、アポも取れない」
「彼の弱味は私の弱味でもある。なら、あなたの弱味でもあるわ」
「僕を脅すのか」
「交渉。もし言う通りにしてくれたら、ご褒美あげる」
手を後ろで組み、腰を曲げてぐっとこちらに身を乗り出し、覗き込むようにして彼女は言った。上目使いで僕を見る目が、占い師の水晶玉のように妖しく光っている。
「ご褒美?」
「何がいい?」
白川は艶美に笑う。口許が三日月のように吊り上がる。ふざやがって。
窓を締め切った音楽室は蒸し暑くて、空気が寒天のように固着してしまったようだった。喉が水分を欲しがっている。新鮮な酸素が吸いたい。真綿で首を締められているようだ。
――女性は恐ろしい。お花畑と現実の区別もつかないような顔をして刹那的に生きているかと思えば、次の瞬間には狡猾で執拗な狩人のように男を追い詰めてくる。日下部といい、白川慧といい、どうしてこんな一癖も二癖もありそうな女ばかりが関わってくるのか。否。そういう女だからこそ、関わってくるのかもしれない。
僕は腹を括って前を見据えた。余裕たっぷりの小癪な笑みが僕を見詰めている。