凪いだ海に落とした魔法は 3話-5
――ああ、それにしても暑い。
夏が来れば人は開放的になると言うが、むしろ僕はクーラーの効いた部屋で閉じ籠っていたい。寒い冬の方が心身もキリッと引き締まって活動的になれる気がする。
幻想的なまでに巨大な入道雲をぼんやりと眺めながらそんなことを考えていると、不意に教室の前側のドアが開いた。
外敵を探索する殺人機械のように目だけを動かし、僕を認識した後で、彼女はつかつかと歩を運ぶ。長い脚で躊躇いをひとつひとつ踏み潰すかのような、泰然とした歩き方だった。
日下部は僕の目の前、つまりは自分の席で立ち止まり、空っぽの椅子か空き缶でも見るみたいに、僕のことを見詰めた。額から後頭部まで突き抜けそうな視線で、いたたまれなくなる。
「やあ」と僕は言った。
「くたばれ」
第一声で彼女はそう告げる。起訴状を読み上げるような事務的な声だった。
「ストレートな四文字だ。君の気分が手に取るように分かる」
「あなたを探してた。人目がなくなるのを待ってたの」
どうやら起訴状ではなく、死刑宣告だったらしい。
「できれば殺さないで欲しい」
「できなくても死んで欲しい」
「まだ順番待ちしてるところなんだけれど。ほら、高齢化社会だからさ、日本の死神は忙しいんだよ。割り込みはよくない」
「その待ち順はお金で買えないの?」
「3千円じゃ無理だと思う」
「残念。割り込まれて困るようなものでもないのにね――」
剃刀みたいにシャープな声で日下部は言った。視線で貫かれ、声で切り裂かれ、僕はすっかりさっきまでの暑さを忘れていた。蛇に睨まれた蛙という気分か。
セミの鳴き声を引き連れた風が彼女の前髪を揺らしたけれど、その表情は1ミリも揺らがなかった。彼女は暑さも涼しさも感じないのだろうか。
「最初に言っておくけど」と僕は慎重に前置きする。
「なに?」
「騙されたのは僕も一緒だ」
「ふむ」
「つまり、僕も英語のテストは散々だったわけ」
「だから、許せと? 痛みを共有した仲じゃないかと?」
「いや、ただの情報として、耳に入れておいて欲しくて」
「他には?」
日下部が目を細める。
「クソの役にも立たない情報だったけど、聞くだけなら聞いてあげる」
ガラスが割れて何かに突き刺さったような気配がした。抑制された音声が、固まった空気を引き裂くようにして伝わってくるのだ。
「じゃあ、沢崎拓也が仕組んだことだと言ったら、どう思う?」と僕は言った。
「誰だって?」
「沢崎拓也。知らない?」
「知らない。歴史の教科書にでも名前が載ってるのかしら?」
「いや、この学年じゃ割りと有名人なんだけれど」
「有名人!」
ハッと嘲笑うように彼女は口から吐息を溢した。恐れるどころか、知らないときたか。
「随分と限定された世界の有名人だね。私以外はみんな授業で教わったの?」
「だとしても君はろくに授業なんて聞いてないだろ」
「そうね。それで、次の情報は?」
彼女はおとがいをクイッと上げて催促する。命令的口調。
「いや、特にはもう。打ち止めだよ」
「あらそう。実に不毛な遣り取りだったね」
そう言って日下部は笑ったが、その微笑は何処からかくすねてきたサンプルを張り付けただけのように見えた。中身の無い笑みで、決してその表情は彼女の心理を代弁しているわけではないのだろう。その証拠に、瞳の色は午前二時の夜空に浮かんだ真冬の月みたいに冷淡だった。