凪いだ海に落とした魔法は 3話-42
「無視すんな」
顔に水滴らしきものが当たって冷たい。見ると、日下部が指でストローをしならせてメロンソーダの水滴を飛ばしていた。
「あの、やめてくれる? それ」
顔を背けて抗議するが、日下部はお構い無しでストローの先を弾き続ける。無表情に何をしてくれる。
「シノ、私今ね、楽しくないんだよね。全然」
「うん。それは顔を見れば分かるからさ。取り敢えずメロンソーダを飛ばすのは止めにしないか。冷たいし、行儀が悪いよ?」
布巾でテーブルを拭いて、日下部を宥める。
彼女は偏頭痛を堪えるように額に片手を当てて、何度も嘆息を漏らした。もう僕を責める言葉は一言もなかったけれど、僕を睨み付けた彼女の目には、それが全然なかったとはいえない。それは当然のことだ。他に責任のある者はいない。
「普通の経験じゃ楽しめないのなら――」
僕の隣でコーラを飲んでいた沢崎が言い出した。
「また悪いことでもするか?」
「悪い、こと」と日下部はその言葉の成分を確認するような声で繰り返した。
「そうそう。それつまり楽しいことだ。美味なる禁断の果実」
「例えば何よ? 万引きなんてガキ臭いまねさせる気?」
「そんなのは普通の範疇さ。面白くもなんともない」
「普通じゃねえだろ、万引き」と僕は突っ込んでおく。こいつの常識で事を進められたら堪らない。面白くないというのは確かだが。
「う〜ん。やるならでかいことがいいよな。金持ちからだけ盗む泥棒みたいな善意的悪事ならより素晴らしい」
善意的悪事。偽善行為と言いたいのだろう。
「あのさあ」
メロンソーダを飲み干して、「ふうっ」と息を吐いてから日下部は言った。
「悪事を重ねることで私に楽しさを植え付けようだなんて、あなたは私を生粋の犯罪者にでも育て上げたいの? テロリストのマインドコントロールじゃないんだから。できればもっと健全なやり方を希望するのだけれど」
「普通の範疇を越えようとしたらどうしたって法のひとつは越えることになると思うぜ」
実際のところ、確かにそれは無視できない問題だった。ありきたりな生活では楽しみを見い出せないからと言って、世間の倫理から激しく逸脱した行為を取るわけにはいかない。非常識を求めることにはなるのだろうが、その結果として日下部がまるで常識をいとわない人間になってしまっては困る。彼女が必要としているのは人生に刺激を与えるスパイスであり、人生を狂わせる麻薬ではないのだ。常識の妥協点は慎重に見定めなくてはならない。まあ、始めから常識から少し外れたところにいるのが、日下部沙耶の人となりではあるのだけれど。
喫茶店で喉を潤した後、僕たちはまた目的もなくショッピングモールをぶらぶらとした。
安価でカジュアルなアパレル店を冷やかして、CD屋でお気に入りのミュージシャンの新譜をチェックして、本屋でバイク雑誌を立ち読みした。非日常の入り込む隙間なんて1ミリもない日常的な時間だった。僕と沢崎は、割りとそのだらだらとした時間を楽しんでいたのだけれど、日下部だけは終始退屈そうだった。さてどうしたものか。