凪いだ海に落とした魔法は 3話-24
テストの問題用紙をコピーして、それを売り捌いてお金を稼ぐ。そんなアクロバティックな馬鹿をやっている僕たちを見て、日下部は、こいつらなら“楽しい”という感情を教えてくれるかもしれないと、そう思った。
きっと、どうしようもないほど馬鹿な奴等に見えたのだろう。僕が主観的に考えても、馬鹿なことをしているな、と思うのだから、客観的に見たらもう、狂喜の沙汰ではないか。
どうやったら、僕達は日下部沙耶を楽しませることができるのだろう。それは並大抵のことではないのかもしれない。
他愛のない会話をしたり、部活に精を出したり、そんなことで解決するのなら、気持ちの持ち用でどうにでもなる問題だ。
日下部は言った。脳に不具合があるのかもしれないと。それならば彼女を治療するのは僕たちの仕事ではなく、医者の領分ではないか。頭に欠陥があるのか、精神病なのかは分からないけれど、ただの高校生である僕たちの出る幕ではない。
僕はビールをぐっと喉に流し込み、隣の日下部を見遣った。
ハムスターみたいに変化のない表情でピザをかじりながら、沢崎の質問にぽつりぽつりと答えている。退屈そうで、でもそれを自分の一部として受け入れているような感じだった。
神経質な魔術士の造り上げた精巧な人形のように、彼女は美しく静謐だった。
じっと眺めていると、湖にコインを落としたような波紋が胸に広がっていくのを感じる。絹のシーツにできた皺のようなそれは、音もなく広がって、やがて見知らぬ感情を形成した。名前も知らない生まれたての温かな感情。
僕は彼女の横顔を見ながら、できる限りのことはやってみようと思った。
日下部沙耶に“楽しい”を教える任務を、全力を持って遂行しようと決意する。医者の出る幕じゃない。これは僕の仕事なのだ。
それは義務感でもなければ、崇敬な使命感でもない。彼女にテストの件を密告されるのが怖いわけでもなかった。
何のことはない。僕は単純に、日下部沙耶の“本当の笑顔”を見てみたいと、ただそう思ったのだ。
氷のような仮面の下。“楽しい”という想いを知ったとき、彼女はどんな顔で笑うのだろう。
僕はそれが知りたいだけだった。
「なあ、お前のバイク見せてくれよ。表に停めてあるんだろ」
二本目のビール瓶を空にしたところで、沢崎が目を輝かせてせがみ出した。さっきまで敵対心を剥き出しにしていた男とは思えない。
「構わないけど。乗りたいとか言わないでくれるかな。酔っ払いが乗って転ばれたりしたら、流石に困る」
ほんのりと赤くなった自分を棚に上げて日下部は釘をさす。アルコールの影響が見られるのは顔色だけで、しっかりと舌は回っていた。
「駄目か?」
悄然たる面持ちで沢崎が訊く。バイクのこととなると、こいつは急に子供のようになる。
「見るだけ。乗ったら殴る。強めに殴る」
「分かった分かった。見るだけ見るだけ」
席を立ち、外へ出る。少し足元がふらつくような気がしたけれど、ちゃんと歩くことはできる。でも、これでバイクを運転するのは確かに危険そうだった。
店の外は別世界のように静かだった。懐かしい虫の鳴き声と、ネオンが時折バチッと音を鳴らす以外、鼓膜を震わせるものは何もなかった。
目の前には公道が横たわっていて、そこを走る車は一台もない。五十メートル程向こうに営業時間の過ぎたガソリンスタンドがあって、その近くに倉庫か廃墟らしき物が建っていた。アパートも民家も見当たらない、うら寂しい場所。蕭条としていて、居心地のいい空間。灯りが少ないせいで、星がよく見えた。
深呼吸をして、買ったばかりのノートみたいに新鮮で綺麗な空気を肺に取り入れた。ビールが効いているのか、いつになく気持ちのいい夜だった。