凪いだ海に落とした魔法は 3話-2
「どうしようもないだろ?」と僕は言った。
沢崎の噂はクラスの壁を越えて学年中に広がっている。上級生にだって知っているやつはいるだろう。そしてその噂には、ある種の事柄に対して免罪符となりえるだけの影響力がある。つまり、相手が沢崎拓也なら泣き寝入りするしかない、という旧社会の階級制度めいた不文律だ。明文化されてはいなくても、そういった法則にはおおむね不可視の抑止力が働いているもので、その力が実際に行使される事態なんて、誰も歓迎はしないだろう。沢崎拓也とはそういうイメージの男で、そういう意味を持つ名前なのだ。
「あいつに言えるなら好きにすればいい。騙しやがって、金返せって。別に止めないし、何なら僕の分まで殴ってやってもいい。むしろそうしてくれ」
「そんなこと――」
「したって、まあ、熨斗を付けて返してくれるとは思わないけれど。拳のひとつはサービスしてくれるかもだ」
「んぐっ」
菊地は臆した風に口籠り、かさかさに乾いた唇を噛んだ。
「志野、お前から言えないのかよ? せめて俺の分だけでもさ」
「お前は仲介料として1人500円引き。7千円も安くしてあるから総額でも2千円しか払っていない。一教科分くらい大した被害じゃない。そうだろ? でも、他の奴はそうじゃない。中でも英語の売れ行きは一番人気だったから、10人ほどがそれぞれ2〜3千円を丸損したわけだ。今はお前の金の心配より、他の客のフォローを心配するべきだ。違うか?」
今の段階で彼らの怒りの矛先は菊地に向いているはずだった。僕がそうなるように仕組んだのだから当然だろう。
「どうするんだよ。俺が恨まれちまう。なあ、沢崎の名前、出しちゃってもいいんだよな?」
菊地は半ば独り言とも思える口調で嘆くように言った。
「それしかないだろうな。多分、それで金を返せって声はなくなると思う」
お前のようにな、とは言わないほうがいいだろう。
「ああ、クソ。何でこんなことになった。大丈夫かなあ、俺」
「そう心配するな。やましいことをしているのは他の奴等だって同じなんだ。誰もチクったりはできない」
「そりゃそうだけど、何でお前はそんなに落ち着いてるんだよ」
僕がこの件に絡んでいることを知っているのは、沢崎と菊地を覗けば日下部だけだ。菊地が接触した14人に沢崎が黒幕であることは、これから知られてしまう。実のところ、僕は比較的安全な場所にいるのではないかと、そんなふうに思っていることは、秘密にしておこう。円滑な人間関係のために。
「菊地が焦ってるからだよ。他人が取り乱しているのを見ると自分は冷静になれるもんなんだよ」
僕は笑いながら言った。うまく誤魔化せただろうか。「ところで」とその先を続ける。
「白川に僕のこと言った?」
「え? 白川? ああ、ケイちゃんか」
慧ちゃん?
「あいつそう呼ばれてるの?」
「んあ、そう。仲いい奴にはな。俺とは小学校からの馴染みだから。てか、お前も同じクラスなのに何で知らないかね」
クラスメイトがどう呼び合っているかなんてどうでもいいだろう。その情報にどれだけの価値があるというのか。それにしても高校生にもなってちゃん付けとは恐れ入る。
「それで、言ったの?」
「ああ、でも、志野も買ったんだよって、まあそう意味で。大したことは言ってないよ」
「じゃあ、彼女は問題用紙の仕入れ先に僕が仲介してることは知らなくて、あくまで購入者の一人だと思ってると? それはそれで都合がいいけど、何でそんな話になったんだろう。つまり、どうして僕の話が出たのかって意味だけど」
意識したつもりはないが、自分でも驚くほど押し込もった声が出てしまった。