マルゲリータは眠らない-2
帆船の特等キャビンを意識した店内には、いまや客は自分ひとりしかいない。
それは新宿などの歓楽街ではなく、市街地の一角という店の立地が関係しているのだろうが、いつもこの時間にくれば、客はぼくひとり、運が悪くても精々がもう一組いるかどうかといった具合だった。
だから、カウンターの一部を独占し、一人客なのに同時に二杯のカクテルを頼むなどという迷惑行為を、こんな中年が恥も外聞もなくできるのだ。
――そして、このぼくが手を付けてないカクテルだが、べつに嫌がらせでも冷やかしでもない。
ましてや、ヘンテコなマジナイなんかではもちろんない。
――これは妻の分なのだ。
ぼくの妻。弓香の分なのである。
「靜くん。きみは、結婚はしないのかい?」
ぼくは無人の店内で、空になったグラスの縁をなぞり、塩を人差し指で集めながら言った。
とんだ不躾な質問である。
もちろん、ぼくだって誰彼構わずに訊ねるほど面の皮が厚い男ではない。
というか、もし、部下の女の子とかに言ったら、最悪、セクハラになってしまうし。
けど、この質問の本当の意味を目前の青年は理解してくれるのである。
だから、聞いたのだ。
「生憎ですが……」
「彼女は?」
「ここ数年は空っきしですね。この店を継ぐ前は寮暮らしでしたから」
「ああ……」
そう言えば、たしか彼は父親――この店の前のマスターが亡くなる直前の二年間、警察官になっていた。
マスター――先代である――に何十度も制服姿の写真を片手に自慢されたのは、いまではいい思い出である。
よくは知らないが、まぁ、警察というところは縦社会だとも言うし、能動的に動かなければ異性と触れ合う機会には恵まれないだろう。
そして、この靜くんはそういうタイプには見えなかった。
「――大手広告代理店の課長、二十半ばで結婚し、息子は一流の国大に入り、弁護士を目指している。娘はオーストラリアに留学中で経営学の徒。五体満足で将来に陰りなし。……こんなぼくは幸せだよね?」
「私には答えかねます」
「……そう」
ぼくはそこで黙った。
けれど、べつに不愉快になったわけじゃない。
いい大人が愚痴ると、そのあとには後悔しか残らない――それだけの沈黙である。
だけど、誰だって愚痴を言いたくてならない日もあるんだ。
そして、ぼくの場合は、その相手は彼しかいない。
「……ふふっ。すまないね。じゃあ、なにかもらおうかな?すこし強めのを」
「では、マルゲリータの続きとしてXYZ.を。コアントローの代わりにオレンジキュラソーを使いまして……」
「頼むよ」
結局、ぼくは日付が変わるまで、椅子を立ち上がることはなかった。