南の島にて-1
赤い薔薇の香りを嗅いだとき、私は別れた恋人のことを、遠い感傷にひたるように思い出す。
恋人は、赤い薔薇が好きだった。そのことを私は、ずっと知らなかった。
どうして好きなのかと、一度、尋ねたことがあったが、彼は小さく笑うだけだった。そのとき
私は、恋人と別れる時期がきたのだと、ふと思ったような気がする…。
初夏の久しぶりの休暇だった。
なぜか、思いたったように私はひとりでこの南の島を訪れた。
白い砂浜の先には、エメラルドグリーンの海が、白い波をたたえながら地平線の彼方までゆった
りと広がっていた。
私は海を眺めることが好きなのだ。無言でありながら、どこまでも優しく私を抱いてくれる海…。
そんな海を、私は幼少の頃から、いつもひとりで眺めていたような気がする。
女もずっとひとりでいると、枯れた落ち葉が降りつもるようなからだの寂しさを感じるものだ。
五年前に恋人と別れた私は、いつのまにか四十歳を過ぎていた。ホテルから近いこの砂浜を散歩
しながらも、熟れた蜜汁がいつしか褪せ果てていき、どこかに澱んだように沈んでいく切なさが、
私を包み込む。
だれもいないと思っていた浜辺で、偶然出会った二十歳ぐらいの男の子は、どこか別の世界から
あらわれたように、瑞々しい清楚な顔をしていた。
そして、彼の禁欲的な白い足首に接吻したいと思ったと同時に、遠い記憶の霞みに包まれた恋人
のペニスが、無性に恋しくなったのもほんとうのような気がした。
その男の子は、赤い薔薇の花を手にしていた…。
恋人が好きだと言った赤い薔薇…そのとき、渇いた私の襞の中に甘い雫が滴り、しっとりとした
潤いに微かに充たされていくのを感じた。
恋人と別れたとき、私はなぜか悲しさも切なさもなかった。
涙がでない自分が不思議だった。そして、最後に恋人にからだを触れられたのがいつだったのか
さえ、覚えていなかった。彼の面影が、私の中で歳月とともに自然に色褪せていくことに、何の
焦りも感じなくなったのはいつ頃からだろうか…。
「とても静かで素敵な海だわ…」
黄昏時の誰もいない海岸で出会ったその男の子に、不意に私は声をかける。自分でも信じられな
いほど素直に声をかけることができたような気がする。
年齢のわりには童顔に見えるその男の子は、清潔そうな髪をなびかせ、涼しい顔の中に澄んだ瞳
ときれいな鼻筋をしていた。
私は、黙って頷く彼の横顔を覗く。
白いポロシャツの胸元から、どこか瑞々しい透明な風が私の子宮の奥まで吹いてくる。細身の
からだをした彼の下半身をぴったりと包んだハーフパンツからは、まるで大理石の彫像のように
美しくしなやかな白い脚が伸びていた。私は何気なくその足首に視線を這わせる。
そのときだった…。男の子は、手にした薔薇を打ち寄せる波の上に、そっと浮かべた。