ラインハット編 その七-11
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「マリアちゃん! これ並べて!」
「はーい、今すぐ!」
鉄板の上に並べられたロールパン三ダース。手際よくカゴに移し変え、店内に並べる。
待ち行く人々に焼きたてのパンはいかがと声をかける。正午を迎える頃、香ばしい臭いとマリアの華やかな容貌に人々が集まってくる。
「おじょうちゃん、これ三つくれ」
「はいはいただいま!」
「こっちには五つ!」
「まいどありがとうございます!」
「おねえさん、僕にも三つ!」
「じゅんばんですよ〜」
マリアとパンに群がる男達を順々に捌き、額に光る汗を腕で拭う。
お昼を迎える頃には追加のパンも全て売り切れ、少しはやめのティータイムの準備を始める。
あの地獄を抜け出て早一年。マリアはともに脱出を果たしたリョカと共に、オラクルベリーに住んでいた。
今はパン屋の受付に従事しており、リョカは陸商隊の護衛をしている。
彼はまとまったお金と一緒に帰ってくることが多かったが、魔物が活発になったという噂を聞くたびに、彼の無事を祈らずには居られなかった。
リョカは始め見たときは、とても頼りない男に見えた。けれど、それは不必要なほどの優しさと、真面目さ故。それに、ヘンリーが居たからこそ気付けずにいたが、あの地獄において心折れることなく二年も自我を保っていたのだ。並の精神力ではないだろう。
彼と一緒にいると心が安らぐ。穏やかな物腰と笑顔、どんなつまらない話でも最後までしっかりと聞いて、頷いてくれるリョカ。
ヘンリーのような意志の強さや導いてくれる雰囲気はないが、マリアが等身大で生きていくには十分な相手。背伸びをせずともそっと寄りかかったとき、彼が胸で受け止めてくれる。そんな小さな二人な関係。
かつて少女の時代に思い描いた、王子様が迎えに来てくれることと比べれば侘しいが、地獄のありようを知った以上、その小さな幸せこそが本質なのかもしれないと、マリアは思っていた。
だからこそ、リョカを繋ぎとめておきたかった。
眠れずに居たリョカの隣に座り、布団に手を当てる。
彼も年頃の男なら、その誘惑に流されるはず。それに真面目な人だから、責任をもってくれるだろう。だから……。
一つだけ見誤ったことがあった。
リョカが何故あの地獄に落ちたのか?
彼にはその一つがまだ心残りにあったらしく、そのこびり付いたものがせいぜい黴のような、擦れば見えなくなるようなものだと、そう誤解していた。
リョカはサンタローズに行くと言い出した。父の手がかりを探しに行くと。
彼の父が何者かは、マリアは知らない。けれど、彼のような強く優しい若者の下地を紡いだのだ。それなりの人物なのだろう。だからこそ、危惧した。
マリアは無理を言ってリョカの旅に着いていき、そして、洞窟で一枚の手紙を見つけた。
内容こそ、リョカを自由にさせるもの。だが、彼の芯は見えないけれど強く太く、消えないもの。
もしこれを見せたとすれば、表面上は自由に暮らそうとしても、必ず心の奥底に父の無念を晴らしたいという気持ちがくすぶる。それは何かきっかけがあれば、風がふっと吹けば途端に燃え上がり、彼を奪うだろう。
そう考えたマリアは、その手紙を隠した。
それを一転させたのは、ヘンリーとの再会。
黒色の鎧と緑のマント。やや容貌に変化はあったものの、その自信に満ちた眼差し、態度、弁舌、どれをとっても彼であった。
そして再び唇を奪われた。
かつて地獄で味わった感触。一年寝食をともにしたリョカの前でという背徳。身体は既に別の男に蹂躙され、快楽を知っている。それどころか、彼の友人に心を寄せ、その未来にフタをした。
輝かしい彼に似つかわしくない。けれど、慈愛に満ちた彼にすがることもできそうにない。
マリアは狭い部屋の中、やんわりとした絶望を感じていた。