ラインハット編 その二 奴隷王子-7
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「浄化の光よ、今一度彼に生の喜びを……、ベホイミ……」
誰かの声が聞こえた。知らない女。マリアではない声。
「え、え、え?」
そして戸惑う友の声。
「イタズラなる風の精霊よ、我は汝に求める、かの者達に慌しい朝の目覚めの洗礼を……ザメハ……」
不意に視界が明るくなり、身体が嘘のように軽くなる。
「ん? 俺は……」
喉元に絡まる血反吐の不快感もなく、身体を蝕む病の疲労もない。
「ヘンリー! 良かった!」
「うむ。看病ご苦労であった……。お前は?」
喜びのあまり涙を浮かべるリョカを労いつつ、フードを目深に被る見知らぬ赤い目の女に眉を顰めるヘンリー。奉仕者にも監視にも見えない異質な存在だった。
「ご挨拶ね。貴方を助けてあげたって言うのに……」
「そうなんだ。この人がヘンリーを助けてくれたんだ。えっと……貴女は……」
「私はエマ、エマ・ミュール」
「エマか……。ふむ、初めて見るな、エルフというものは……」
文献でかつて眼にしたことがあったから直ぐに出た。
「あら、よくわかったわね」
それほど意外という様子もなく、エマはそっけなく言う。
「ルビーエルフ。伝承の中の架空の存在だと思っていた」
ルビーエルフ。彼女らはエメラルドエルフなど非戦闘種族を保護する誇り高き戦士。
「へえ、博識なのね。なら、私がどういうつもりかわかるかしら?」
「だから驚いている。ルビーエルフが人間を助けるなど、その存在を知る者ならありえないからな」
その存在からたびたび人間と衝突も繰り返していた。その原因は、人間の欲望にある。なぜなら彼女らは、その涙がエメラルド、ルビーといった宝石に変わるから。
「ちょっとヘンリー、どうしたのさ? 彼女は君のことを……」
「何が目的だ? 貴様らが見返りなしに人間を助けるはずなど無いだろう?」
治療を施すということから間近な悪意はないだろう。特に呪いに秀でた種族というわけでもなく、時限的なものも感じない。だからこそ、疑念を抱いてしまう。
「話が早いのね……。なら言うわ。王者となりなさい」
「ふん、そんなこと、頼まれるまでもない。俺はこんなところで死ぬつもりはない。ラインハット国の王族なのだからな」
肩を鳴らしながら立ち上がるヘンリー。エマは腕を組みながら彼に冷ややか視線を送る。
ラインハットの王子として生まれた彼は、もとよりそのつもり。優しいといえば聞こえの良い軟弱な父に代わり、いくつかの国に分かれるラインハット地方を統一する野望をもっている。それは武力でも経済によるものでもどちらでもだ。
「言うわね。でもどうやってここを出るつもりなのかしら? 四方は海に囲まれて、ここを降りたところで凶悪な魔物がひしめいているっていうのに」
「俺が無駄にここで時間を過ごしていたと思うか? リョカよ、俺は何日寝ていた?」
「え? えと、多分二週間目かな?」
頭の中で足し引きをするヘンリー。鈍った頭がやや痛むが、脱走までの簡単な計画が浮かぶ。
「そうか、なんとか間に合いそうだな。よし、明日だ。明日にはここを出ようではないか」
「な、なんだって?」
「そんなことができるのかしら?」
「ならお前なら出られるのか?」
ヘンリーは自信に満ちた様子で言い返す。
「私にはルーラがあるわ」
「ほう、便利だな。お前俺の子分になるか?」
禁止魔法のルーラが使用できるのであれば、ラインハット地方に限らず、世界中の戦力図が塗り替えられるだろう。語源通り地点制覇を可能とするのだから。
だが、ヘンリーはそれほど真意に迫った様子もなく、笑い半分で告げる。
「冗談。貴方が私の僕になるんでしょ? そうしたら今すぐにでもこの地獄から抜け出させてあげるわ」
その半笑いに苛立ったエマは眉間に皺を寄せながら言い返す。今、この世界でルーラを使えるのは妖精ぐらい。そしてレムオルをはじめとする強力な魔法もまたしかり。それほどのポテンシャルを持つべく自分を一笑にふす彼の態度が、根拠の無い自信に見えて苛立った。