ラインハット編 その二 奴隷王子-3
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重いカメを運ぶマリア。ふらつく足取りは水たまりを作りながら進むため、彼女がどこを通ったか直ぐにわかる。
その様子からナメクジ女とからかわれるが、それは彼女の身なりが他の奉仕者に比べて小奇麗に保たれているのが故の嫉妬だった。
今日も重いカメ一杯に水を張って作業場を往復するマリア。作業がはかどるほどにその往復路が長くなるわけで、マリアの作業は日々過酷さを増していった。
「ふぅ……」
硬くなった手の平を見ながら、マリアは息をつく。ここに来たときは白く長い、細い指先だったのが、今は赤茶けた土まみれで、手のひらにはいくつもタコができていた。
彼女が今こうしているのはかつて光の教団の支部で働いていたときの粗相が原因だった。
もしあの時こうしていればと思うも、それはそれで別の地獄が待つだけと、彼女は悲観的にもなれなかった。
「手伝おう」
不意に声がした。振り向くと緑の髪の青年が立っていた。
「えと、ヘンリーさん?」
「名前を覚えていてくれたのか。光栄だ」
ヘンリーはふふっと笑うと彼女から水カメを奪い、颯爽と運んでいく。
「あ、あの、それは私のお仕事で……」
「こんな重いものを君に運ばせろっていうのかい? それじゃいつまでたっても俺達奉仕者は喉が渇きっぱなしだ」
もっともらしいいい訳をするヘンリーに、マリアは呆気に取られていた。この奉仕者という名の奴隷生活で、彼は何を恰好つけているのかと……。
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あくる日も、その次の日も、ヘンリーは彼女の水汲みの手伝いをした。
もともと監視の一人を抱きこんでいるヘンリーにとって多少のサボリはお手の物であり、また必死そうにカメを運ぶ姿を見せていればそれなりに仕事をしているようにも見えた。
「どうして手伝ってくださるの?」
マリアは素直な、鈍感な疑問を口にした。
「ほっておけない……じゃだめかい?」
ヘンリーはそっけなく、笑いながらそう返した。
実のところ、彼にもよくわからない。いうなれば遅い初恋とでもいうべきだろうか?
もともと国政にばかり興味を持っていた彼は、周りに居たアルミナを筆頭とする権利欲に塗れた女を見すぎたせいか、忌避していた節がある。
「でも、ヘンリーさんの仕事が……」
「大丈夫。うまくやってるさ。俺が鞭で打たれるところ、見たことないだろ?」
けれど、マリアにはそれが無い。当然といえば当然だが、身分や他の何でも無く、等身大で向き合える女性に、ヘンリーの中で煽られるものがあった。
「ほんと、いけない人ですね。さぼってばかりいて……」
くすっと笑う彼女は、そっと手で口元を隠す。荒れた手と唇、よじれた前髪。女性としての嗜みも制限される中、彼女のその仕草がいじらしく、ヘンリーは目を細める。
「そのおかげで君の手伝いができる。いけないかな?」
もしかしたら、自分より大きく思える友が、彼女に見とれていたせいかもしれない。
「え……? でも、私だけ……特別扱いなんて……」
自分はリョカに負けていない。けれど、勝っているのだろうか? その疑問が、恋と勘違いさせ、彼を焦らせたのかもしれない。
「いけないかな? 君を特別扱いして……」
ヘンリーはそう言いながら距離を詰める。マリアは、彼の気持ちがわからず、戸惑いの表情を返す。
「君はここに相応しくない」
右手を取り、そっと髪を撫でる。洗うことも櫛を入れることもできずに絡まる髪をいとおしげに撫でるヘンリー。
マリアは、少し前までの慎ましいながらも平穏な日々を思い出す。
兄と両親との暮らし。心配性な兄は何かというと「お前が心配だ」といって寂しそうに頭を撫でてくれた。その懐かしさが、不意に蘇り、目頭が熱くなる。