どこにでもないちいさなおはなし-68
船が小さくなっていくのを見つめていたリールはいよいよ肉眼で船が見えなくなると青い蝶を手のひらを重ねて出して船の方へ飛ばしました。
「蒼き清々なる風よ。皆を無事メリーガーデンへ運び、旅が無事に行くように良い航路を」
リールがそう呟くと背の方から一陣の風が吹くのが分かりました。それを見送ってからゆっくりと白い砂浜を歩いて巻貝の砦へと足を運びました。銀細工のドアは触れたら壊れそうなほど細かくて、しかし、リールは何のためらいも無くその扉を両手で押し開けました。中は一面がステンドグラスのように壁という壁が天井まで色とりどりの透明な光りが入っていました。たくさんのちいさな人形が白い骨を細工した棚に並べてあり、その中にはネーリアにそっくりな物も置いてありました。思いのほか広いその空間には天井に紙で出来た蝶がいくつも吊るしてあり、床は一面押し花が敷いてありました。その床の中央に小さな扉がありました。透明なガラスで出来たそれにリールは近づいていきました。そっと覗くと水がその扉の外側まで来ているのが分かりました。
「ここから、入るのね」
リールは一人呟き、観音開きになっている扉の取っ手に手をかけました。そして口から息を吐くように今までのどの蝶よりも立派な金色の揚羽蝶を出すとパリンと硬質な音を立てて扉が開きました。リールはポケットからあのラーの国の使者に貰った小瓶を取り出すと中に入っていた真珠を一つずつ飲み込みました。苦しそうに目を瞑り最後の一つを飲み込み終わると、それまで持ってきていた皮袋をそこに置きました。そうしてためらいもせずその水の中に身を投げました。
真水の海をティアンは一生懸命泳いでいました。あの時、ティアンにはやっと分かったのでした。こうなることをネーリアが知っていて、長く泳げる生き物に自分の姿を変えたのだという事に。
「待っててね、ネーサ、必ず行くから」
リールの事を考えるとティアンの胸はきゅっと切なくなりました。ジャックから語られた真実がそれほど信じられず、それほどショックだったのでした。
リールは水の中をぐんぐんと泳いでいきました。あの真珠は水中でも息が出来る物でした。世界がシャンパングラスのようになっているそのグラスの足の細い部分をリールは泳いでいました。はるか下にある平らな底を目指して。
ティアンが島に着く頃にはすっかり時間がたっていました。それでも最後の力を振り絞って銀の扉を開けるとそこにはリールの姿は無く、床の扉が開いていました。その室内を見渡す事も無く、ティアンはまたその扉の中へ飛び込んでいきました。
リールはやっと新しい扉を見つけその扉に手をかけました。すると扉は何もせずにゆっくりと開き、その中にリールは吸い込まれていきました。すとん、と落ちた先は柔らかいソファの上でした。そこは白と黒の市松模様の床が広がる少し広い部屋でした。真ん中にはさっきまでいたあの世界を小さくした模型のような物が置かれ、側には赤い背表紙の大きな本がひとりでにページをめくっていました。あんなに泳いできたのにリールの洋服は乾いていました。そっと立ち上がり、辺りを見回しました。そして、本棚の前に立つ小さな小さなピエロを見つけると、声をかけました。
「ゼロ、私を呼んだのは貴方ね?」
ピエロが本に伸ばしていた手を止めて振り向きました。赤い鼻を付けた年老いた顔をしていました。ゼロは目を細めるとリールを見ました。