どこにでもないちいさなおはなし-64
「リールッ!」
ティアンはリールの肩を揺さぶりました。リールが人形のようにぐねぐねと動きましたが何も変わりませんでした。マイラはそんなティアンを振り向いてちらりと見るとドアの方へまた意識を集中させました。三人の耳にはあの鳴き声と悲鳴が増幅されていくのが聞こえました。
「リール、リールッ!」
ティアンはなおも肩を揺さぶりました。次第に船が大きく左右に揺れて銀の盆がテーブルの上から落ちて音を立てました。
ティアンは何も語らず何もしないリールの頬に平手を打っていました。バチンと凄い音がしてリールの顔がその衝撃で横を向きました。口から親指がはずれ、まだ濁っていた瞳が澄んでいきました。
「ネーサ、君はイヴだろうっ。君のためにあの安全なメリーガーデンを出てきてくれた人達が……死んでしまうかもしれないのに、君はそこでっ、そこで、震えてるだけなのっ。僕は、そんな伴侶ならいらないよっ!」
外では稲妻が落ちる音や何かが燃える音が響いていました。益々悲鳴は増え、ドアがガタガタと音を立てました。
マイラの額に汗が浮かびそれが首筋から流れ落ちて背中に染みをつくっていました。
「……っ」
マイラの口から息が漏れました。蝶を出している両手が段々と黒ずんでいました。ティアンはマイラの方を見て息を呑み、またリールの肩を揺らしました。
「このままじゃ二人きりになっちゃうよ。ジャックもマイラも死んでしまったら……、どうするんだよ」
リールはティアンの手を押さえました。汗は浮かんでいるものの普段の顔に戻っていました。
「ありがとう、ティアン」
そう言うと飛び起き、羽が生えたようにベッドから軽やかに降りました。白いネグリジェがひらひらと風に揺れました。リールはマイラの側に行くと自分も手をかざし金のマイラの物よりも立派な蝶を出してドアに張り付けました。
「マイラ、下がって」
リールに言われるよりも早くマイラは気を失うように倒れこみました。両手は黒くなり煙が出ていました。ティアンはマイラに近づくとこぼれた水差しに残っていた水をその手に思いっきりかけました。マイラは痛みに身体を丸くしました。
「ティアン、何があってもマイラを守って」
リールは金の蝶をから手を離すとドアを開けずに通り抜けて出て行きました。残されたティアンは頷くとベッドからシーツを引っ張りだし、細く切ってマイラの指に巻き始めました。
外に出たリールが目にしたのは昨夜とは全く違う甲板の光景でした。おびただしい量の血がそこら中につき、たくさんのもげた腕や足が転がっていました。ジャックは先頭に立って魔法と剣で戦っていましたが、黒飛竜は星の数ほどいました。その飛竜に乗っているのはルルビーの兵士だけではなく、ラーやヤール、そしてメリーガーデンの者もいました。皆一様に血走った目をしていて、イヴを出せと叫んでいました。
リールの背が冷たくなり、鳥肌が立ちました。それでも意を決して走りだし、ジャックの元へと行きました。