どこにでもないちいさなおはなし-63
朝、リールが目を覚ますとベッドは蛻の殻でした。
「みんな、いないの?」
呟いた時でした。急に耳に耳鳴りのような音が鳴り、鼓動が早くなりました。リールは咄嗟に両耳を塞ぎ目を閉じました。頭の中にどこかの空に黒い飛竜の大群が飛んでいる映像が浮かびました。リールの額には大量の脂汗が浮かび、ドアが開いた音にも気づかないほど混乱していました。
「リール……?」
ドアを開けて入ってきたのはティアンでした。ティアンは手に水差しとグラスを載せた銀の盆を持っていましたがリールの様子がいつもと違う事に気づくとそれをテーブルにおいて駆け寄りました。
「リール、リール、どうしたの?」
ベッドによじ登るとリールの肩に手をかけて揺すりました。するとリールは短く声を上げて叫び、錯乱したように暴れました。ティアンはリールに突き飛ばされ床に転げ落ちました。その音で外では足音が響き、マイラとジャックが顔を強張らせて入ってきました。
「どうしたっ」
ジャックは部屋に入ったまま立ち尽くしました。床に転がったまま呻くティアンとベッドの上でガタガタと震えるリールを見比べ、まずリールに近づきました。後から入ってきたマイラはティアンを優しく抱き起こしました。ティアンは顔をしかめながらジャックの背に向かって話しかけました。
「僕が入ったら、もうリールが変だった」
マイラがティアンの体のあちこちを触って怪我が無いかを確かめていました。ジャックは震えているリールの側に行くと横からそっと顔を近づけ耳元で聞こえるように言いました。
「リール、聞こえるかい?ジャックだよ」
濁った目をしていたリールがジャックを見ました。ジャックはリールが動くのをじっと辛抱強く待っていました。マイラとティアンも床からじっと二人を見ていました。
「……ックおじさま?」
リールが掠れた声でそう呟くとジャックは大きく頷きました。それからまるで蚕の繭を触るようにそっとリールの頭を撫でました。
「どうした?何かあったかい?」
リールは触れられる度に身体を大きく震わせましたが、ジャックの言葉には頷いていました。
「……大群……が、くる」
口をわずかに動かしてリールがそう呟くとジャックの眉間に皺が寄りました。更にリールに聞こうとした時でした。甲板の方から耳が可笑しくなるような何かの鳴き声と人の悲鳴の両方が同時に聞こえました。ジャックは出口を振り向き、次の瞬間には走りだしていました。
「マイラ、結界をっ!外に出るなっ」
バタン、と大きな音を立てながらドアを乱暴に閉めてジャックは出て行きました。マイラは膝に寄りかからせていたティアンをずらすと立ち上がりドアに向かって両手を出しました。マイラの手が銀色に光り、巨大な蝶がドアを包み込むように張り付きました。
ティアンは打ったところを押さえながらリールに近づきました。
「リール、何が来るんだい。ジャックが、ジャックはっ」
リールはティアンの問いには答えずに自分の親指の爪を噛んでいました。それで何かを忘れようとしているようでした。