A-9
5月。
哲也と初めて握手をした日から、ひと月が経った。
雛子はあの日以来、野良着で登校すると、高坂の手伝いをして校門で子供たちを出迎えている。
そして毎日、哲也と一緒に昼休みを過ごした。
最初は、大した会話も無かったが、明るく振る舞う雛子に、哲也も少しづつ心を開いていった。
「せんせえ、長野のお話し聞かせてよ」
「またあ。哲也くん、よほど好きなのねえ」
「だって、面白いから」
哲也はそう云うと、目を輝かせて雛子の言葉を待った。
「う〜ん…あっ!そーだッ」
両手がパチンと鳴った。
「近所のおじさんと行ったキノコ採りの話をしよっか!」
「うん!」
雛子は、記憶をたどりながら言葉を口にする。
「秋になると、シメジや舞茸、椎茸、それに松茸が山に生えてくるの。その山の持ち主が近所のおじさんでね…」
「うん、それから?」
哲也は、すぐに話に引き込まれた。まるで、お伽噺の続きを待ちわびるように。
「…そうしたら、私だけはぐれちゃってさあッ、山は段々暗くなってくるし、怖くて怖くて…」
「アハハハッ!」
面白おかしく聞かせる雛子の話に、哲也はケラケラと笑った。
「…泣きながら沢の方へ降りて行ったら、松明の明かりが見えてね。そうじゃ無かったら、今頃、熊の餌になってたわ」
話を締めくくっても、哲也はまだ笑ってる。
「もう、笑わないでよ!私にとっては死ぬ思いだったんだから」
「ごめんなさい…でも、アハハハ!」
「もうッ!」
ちょうどその時、鐘の音が学校中に響いた──予鈴だ。
「さあ、昼休み終わりッ、午後も頑張るわよ」
雛子が立ち上がりかけた時、哲也が急に真面目な顔になった。
「せんせえ…」
小さな声。思わず振り返る。
「どうしたの?」
「せんせえ。今度、せんせえだけに“秘密の場所”を教える」
「秘密の場所…?」
「うん、大も浩も知らない。秘密の場所だ」
自信に満ちた哲也の顔。それは雛子にとって、初めて見せるモノだ。
「わかったわ。今度、連れて行ってね」
笑みで返す雛子。哲也は強い、喜びを覚えた。
「うん!約束だ」
「約束ねッ」
二人は、校舎の中へと戻って行った。
だが、その姿を恨めしげな眼で見つめる者があった。
「哲也の奴…小作のクセして」
役場の助役、椎葉の息子、和美だった。