凪いだ海に落とした魔法は 2話-1
この電車に乗るのは、もう何度目になるのだろう。
自宅付近の無人駅を出発した四両編成の小さな電車は、買い物帰りの老婆が運転する原付バイクのような速度から脱するまで、たっぷりと時間をかけて走り出した。時折、軋んだ車両が何か巨大な生物の断末間のような金切り声を上げては、数ヵ月前にニュースで見た電車の脱線事故を僕に思い出させてくれた。
片道切符を手に、何処か四次元的な空間に運ばれているような不吉な錯覚を覚えてしまうのは、僕だけではないのだろう。決して多くはない乗客の誰もが固く口をつぐみ、否応なしに縮まっていく目的地までの距離を思っては、顔を曇らせていた。会社、学校、バイト先。平日の早朝から電車に乗る人間なんていうのは、大体が各々に課せられた義務を果たすためにそうしているのだ。誰もが自分の生き方にピンときていないような顔をしていて、そしてそれが当たり前なのだと割り切ったような顔をしていた。電車が走った距離だけ葛藤を投げ捨てているのだろう。降りるときにはもう、社会の歯車としての匿名的な顔を取り戻していた。歯車は自分の存在価値なんて考えたりはしない。隣の誰かが回ったら自分も回るだけだ。くるくるくるくる。たとえそれが趣味の悪い拷問装置でも、僕らは回り、その装置を動かし続けるのだ。
学校に着くまでのあいだに、僕は昨夜の出来事をこと細かく思い出していた。沢崎拓也の自宅の居心地の悪さや、そこに流れていたジャズの音色や、飲み込んだビールの苦さまで。その記憶の中心には彼が職員室から盗み出したというテストの問題用紙のコピーがあった。それを誰かに売り付けて、ひと稼ぎしようという彼の提案に乗ってしまったこと――。
後ろめたくて、いっそ忘れてしまいたい記憶ではあったが、それを思い出すたびに見知らぬ感情が僕の中に芽生えていたことも事実だ。
不気味なくらいに鮮やかな色合いと、甘美な芳香。触れてはいけない果実の罠――。
忌避の気持ちは、その味を確かめてみたいという衝動に追い遣られていた。さして欲しくもない商品をスリルを求めて万引きするような、ちっぽけで、あまりに小さな背徳感。だからこそ、僕は沢崎の提案に乗ったのだろう。たとえば、これが覚醒剤、あるいはそれに近い違法的な何かであったなら、僕はこんな話は聞かなかったことにしていたと思う。
退屈な日々に、ちょっとしたスパイスをまぶすような、その程度の悪事。香辛料漬けの毎日を送るつもりはないけれど、たまにはこんな味の日を過ごすのも、悪くはない。つまりはそういうことだ。
死ぬまでの暇潰しに人は学校に行き、会社に行き、家に帰って眠りに就き、夢を見る。その中に、悪友の愚にも付かない頼み事を聞く日があってもいいだろう。生きることの本質が暇潰しなら、楽しんで暇を潰そうとすることは当然のことだ。たとえそれが法に触れることだとしても、例外なき規則などは存在しないのだから。
道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈だけである。
つまりはそうことなのだろう。
行動の自己欺瞞的錯覚。
願望に基づいた解釈。
道徳という入れ物。
何が正しいとか、悪いとか、そういうものを考えてうじうじすることほど、退屈な思考はない。沢崎拓也とはそんな人間だった。
僕は決めたのだ。沢崎拓也に付いていこう――僕の胸の中に彼が置いていった卵。そいつを孵化させてみせようと。
結果的に僕自身がそこから産まれた怪物に喰い殺されたって、まあ仕方がないじゃないか。
それくらいのリスクは背負ってもいいと、沢崎に出会ってからは思えるようになっていた。