凪いだ海に落とした魔法は 2話-27
全員が席に着いたところで、新木愛という名の教育実習生の女性が教室に入ってきた。理知的なショートヘアと大きな瞳が印象的で、男子生徒に絶大の人気がある。彼女の担当は英語だったな、と僕は思い出す。
何度も繰り返された注意事項を彼女は告げ、何度もそうしたように生徒はそれを聞き流し、いつもと違うのは、テストだけ。配られた問題用紙を裏側にして、本鈴が鳴るのを待たされる。惰性と緊張感がない混ぜになって教室をゆっくりと覆っていった。
さあ――これで最後だ。と改めて僕は思った。最後まで取って置いた好物を食べる前に、水を一口だけ飲んで舌をクリアにするような気持ちで。何故だろう、その水はビールの味がした。甦る記憶は、いつかの夜。
『全てがうまく回れば、みんながハッピーになれる』
沢崎の声が聴こえた。僕らは成績も上がり、金も稼げる。問題用紙を買った奴等にだって、無理矢理売りつけたわけではない。自分なりに損得勘定をした上で、代価を支払って点数を買ったのだ。教師にしても、事情さえ知らなければ、生徒の成績が上がって悪い気はしないだろう。全てがうまく回れば、そうだ――みんながハッピーになれる――。
何処か遠くの方から救急車のサイレンが聞こえた。
それをかき消すように、セミの鳴き声が耳を刺す。
熱気がじっとりと肌を包み込む
間の抜けたメロディアスなチャイムが、校内に響いた。
「では、始めて下さい」
シュッと一斉に用紙を捲る音がして、試験が始まる。
テスト用紙を捲って、僕は思った。
どれだけ上手に歯車が噛み合っても、どれだけ僕らが協調的に事象を回そうと刻苦しても、それを司る人間というのは、必ずいる。
肝心なのは、歯車の質でも、機関の完成度でもない。それを動かす人間のさじ加減ひとつで、僕らの作動は変わってしまう――という理不尽な事実だ。
スポーツの監督も、ボードケームの棋士も、政治家も、回す側の人間もしかり。
司る人間というのは、どんな仕組みの中にも存在する。寿命が付きるのを背後でじっと待っている物言わぬ死神のように。
僕はただの選手であり、駒であり、人形なのだった。
――その全貌を曝した問題用紙の内容は、沢崎に渡されたものとは、まったく違うものだった。
「あのクソ野郎、僕まで騙しやがった」
音にならない囁きを漏らす。初めから、全てをうまく回す気なんて、あいつにはなかったのだ。
首の辺りにチクチクと視線を感じて、僕はこうべを巡らした。
互いの距離をも凍らすような、絶対零度の瞳。日下部沙耶が、棘を孕んだ眼差しで、僕を睥睨している。「話が違うわよ」とでも言いたげな眼差し。
視線がぶつかると、彼女はすぐに目を机に落としたけれど、僕らを隔てる空間は凍てついたままのように感じられた。
当然のことだが、テストの出来は最悪だった――。