凪いだ海に落とした魔法は 2話-22
夜になると、また沢崎から誘いの電話がきた。黒い誘惑。体のことを気遣って断ったけれど、教科書を開いているうちにまた夜更かししてしまった。寝不足の頭に詰め込んだコーヒーのカフェインと付け焼き刃の知識が混濁して、頭がふらふらする。どちらもインスタントなのだから、結果的には体に悪いことをした。鬱々とした太宰治の文章なんて、健康的なものとは思えない。それでも、即席の知識も興奮物質も、取り込んでしまったからには吐き出して捨てることなんてできないのだ。
歯磨き用のコップを水洗いするようないい加減さで、軽くシャワーを浴びた頃には、もう二時を回っていた。タオルケットを一枚だけ被ってベットに入り、目蓋を閉じる。
意識の底に沈んでいきながら、時々思い出すのは――どうしてだろう。日下部沙耶の顔だった。覚醒と睡眠を隔てる扉を探しながら、迷路のように入り組んだ意識の中で、僕は何度も、彼女と出会してしまう。その度に僕は目を開いて、今度こそ眠ろうと意を決してまた目を閉じる。それでも、もの言わぬ街灯のように、気付けば彼女が近くにいた。
青銅で型どられた像を思わせる、揺るぎのない佇まい。
自分さえもアイロニックに眺めるような、冷ややかな眼差し。
触れれば切れるような光沢のある黒い髪。
朝焼けの地平線にシルエットを浮かべるキリンのような、青の孤独を纏う少女。
綺麗で、冷たい。僕が綺麗だと思うものは、みんな冷たいような気がする。いつかテレビで観たダイヤモンドダストもそうだし、星の見える夜空だって、冷たいイメージだ。きっと、温かくて綺麗なものは、みんな作られたものだから。温もりは、誰かのために用意されるもので、その誰かが自分かもしれないということに、僕は違和感を感じてしまう。
扉を探して彷徨い歩くうちに、僕は疲れてしまった。
無理に眠ろうとはせず、ただ彼女を眺めていた。
冷たいものは、何故だろう、見ているだけで気分が安らぐ。
高い熱に浮かされた額を、冷たい窓ガラスにそっと押し付けるような気持ち良さを、眺めているだけで感じられる。
僕の意識は、そうと気が付く前に溶けきって、朝になるまでその冷たさの中で泳いでいた。
次の日は悪くない朝だった。何が悪くないかというと、バランスが悪くない。透き通るような蒼みを帯びた空。煙草の煙みたいに薄く伸びた雲。思わず切り取って体にまといたくなるような涼しげな蒼穹とは対照的に、地上はカラカラに乾いていた。目には見えない物質がそこかしこに飛んでいて、それがスポンジみたいに冷気を吸い取っているようだった。少しでも歩調を速くすると、全身の毛穴が開いてしまう。これでプラマイゼロ。最高のバランス。不運なのは僕が地上にいることだけで、極めて模範的な夏の朝だった。
茹だるような熱気から逃げ込むように校舎に入り、教室へ。今日は英語のテストもある。反則技の使える最後の教科。それが終わると同時に、このゲームも終了だ。
また代わり映えのない毎日が始まる。危機感も罪悪感も、その代償として得られる喜びもない、フラットな日常。嵐に荒れた海よりも、凪の訪れた穏やかな海のほうが綺麗なのと一緒で、そんな日常にだってそれなりの価値はあるのだろう。それでも、何か物足りない、と感じてしまうのなら、それは贅沢な悩みだと諦めるしかない。デザートと同じなのだ。飽食の果ての追加料理。無ければ無いで困ることはないが、在れば在るにこしたことはない。その程度の存在意義。
自分の席に着き、鞄を机にかける。菊地がこちらを気にするように視線を送ったことには、気が付かない振りをした。
いつものように、予鈴が鳴る寸前に、日下部が登校してくる。学校にいる時間を一秒でも減らしたい、と考えているような、完璧なタイミングだった。