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凪いだ海に落とした魔法は
【その他 官能小説】

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凪いだ海に落とした魔法は 2話-21

「おはよう」
「ああ、うん。おはよう」

独り言みたいに温度のない挨拶を交わしてから、彼女は目の前の席に座り、それが自分の義務であるかのように、眠りの姿勢に入る。
僕もまた義務のように日下部のブラジャーの色を確認してから、窓の外に目を遣る。

案の定、雨はもう止んでいた。トルコ玉みたいに嫌味のない空の青さが、目に染みる。残念ながら虹は見えない。

――今日は白だって? と僕は思った。

どう考えても、カラスに白は似合わない。もちろん、それを目の前の濡れた背中に言える度胸はなかった。




当たり前のことだが、倫理のテストは完璧だった。シャーペンを置いた手には、ただ手応えの無さだけが確かな質感を持って残っていた。次の時間、その矛盾した感覚を握り潰した手で挑んだ選択科目のテストは、悲惨なものだった。それを嘆く気持ちよりも呆れる気持ちが先立って、僕は眠い目をこすりながら重いため息をつく。

「すげえよ、志野。俺いま、初めてテストが楽しいわ」

休み時間中に菊地が話しかけてきた。
「そう。よかったね」と僕は言った。口にした後でその言葉の素っ気なさに気付いたが、それは本心だ。紙切れ三枚に2千円も払ったのだ。満足してもらわないと僕も心苦しい。

「何? テンション低いなあ」
「いや、さっきのテストはさ、もちろん自力だから――」
「ああ、最悪だった?」
「うん。まあ、それに近い」
「でも大丈夫だろ。世界史と倫理はバッチリだったんだから、あとは英語で高得点取っておけば足切りラインには届く。大丈夫だって」

沢崎と似たようなことを言う。自分に取っての「大丈夫」が僕に取っての「大丈夫」と同じ意味だと、何の根拠もなく思えるのは何故だろう。ついでに言えば、テンションが低いという評価だって何を基準にしているのか分からない。これが僕のニュートラルかもしれないというのに。

「まあ、そうだね」とだけ、僕は言った。それ以外には口を利けない、とでも言うように。
菊地は何かを言いかけるように口を開いたけど、言葉を紡ぐ前に口は閉ざされた。吐き出されようとしていた消化不良の思いをまた飲み込み、彼は背を向ける。「ノリの悪い奴だな」とでも言うような視線を感じたのは、僕の気のせいだろうか。

自分の席に戻っていく菊地の背中をチラチラと見ながら、ああ――そうか、と僕は理解に至る。

彼が欲しがっていたのは、共犯意識。共犯者同士が持ち寄る、秘密めいた連帯感。悪事の後でその成果を囁き合い、小さく気持ちを高ぶらせる。もしかしたら、そのためだけに悪いことをする奴だって、世の中にはいるのかもしれない。

別に菊地を蔑むつもりはないけれど、「おはよう」の一言でそれを済ますことのできる日下部沙耶のほうが、多分、人間として完成されている――と言うより、高機能だと言える。化石のようにドライで、余計な接触を好まない。いつだって自分の力で、必要なものと不必要なものを取捨選択できる。それに伴う摩擦は、気にするだけ無駄だと、そういうスタイル。

友達になれたかもしれない。一瞬でも菊地に対してそう思ったいつかの事実は、忘れることにした。彼と交わす会話は、日下部沙耶の「おはよう」にさえ敵わない。つまりはそういうことだった。

僕もそういうのは得意なほう。つまり、取捨選択が。考えて、一度答えが出てからは、もう菊地のほうに目を向けることはなくなった。もう、ポケットの中でくしゃくしゃになった期限切れの割引券くらい、どうでもいい人間。かろうじて価値があるのは、彼の払った2千円のほうなのだから。




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