凪いだ海に落とした魔法は 2話-15
「それに、知っての通り月曜からはテストが始まるだろ。遊びに誘うのが遅すぎたね」
『いつからそんな真面目な子になったのよ。大体さあ、映画はおまけで、私とにゃんにゃんしたいなって下心はないわけ?』
「にゃんにゃん?」
『にゃんにゃん』
ボールが弾むような抑揚で彼女は言った。にゃんにゃん? と沢崎はまた思った。少し迷ってから最後の煙草に火を付け、深々と紫煙を吸い込む。
「下半身の話?」と彼は煙を吐きながら訊く。
『ココロの話よ。お喋りして、手を繋いで歩いて、一緒にイタ飯なんか食べるの。分かる? それらの行為は心と密接に繋がってるの。女が求めるのはむしろそっちでしょ』
「さっき自分で“下心”って言ったじゃねえか。まあ、ココロは確かに付いてるけどさ」
『そういうことよ。私のはラブだもの。君は恋、私は愛』
沢崎は頭痛を堪えるように眉間に寄せた皺を指で摘まんだ。愛だの恋だの、この女は何を言っているのだろう。未知の概念の講釈でも始まったのかと、渋い顔で溜め息をついた。
「言ってる意味が分からん。あんたの名前がそうなのは覚えてるけどさ。俺が恋って何だよ。ココロの話なら心の中だけに留めておいてくれ」
『だから、恋は下心。愛は真心って話。そんな簡単な漢字も分からないのか君は』
「ああ、良く言うやつね。“心”の字がある場所」
『そうそう。だからさ、君は下心だけで接してくれていいんだよ。私は真心で接するから。健気だよね、私って』
沢崎はうんざりした様子で顔をしかめる。今までにも、自分の距離感を許容してくれる女性は少なからずいた。ただ、時の経過は独占欲を育むのか、次第に精神的な束縛を求めるようになるのが常だった。相手に取り入るために表面的な協調を見せただけなのだろう。経験則に当て嵌め、沢崎はこの女もその範疇に分類した。
「悪いけど、あんたの言う“にゃんにゃん”は俺の仕事じゃないと思うんだよ。他当たってくれないかな。全然噛み合ってないもの、俺たち」
『ふ〜ん。君、そういうこと言うんだ?』
受話器の向こうにほくそ笑むような気配を感じ、沢崎は目を細めた。
「ん、何か言いたげ?」
『うん。君は私に“借り”があるということを忘れて欲しくないなって、ただそれだけね』
煙草を灰皿に押し付ける。昼寝の希望と一緒に、赤い火種が潰れて消えた。外出する理由がまた増えたようだった。借りは返さなくてはならない。誰にでも分かるルールだった。
「ああ、普通に忘れてた」
『ひどいね。どんだけ都合のいい女だと思われてんだか。貸しは忘れてないよ? あれさ、正直すごく面倒だったんだから』
「まあいいじゃない。思い出したんだからさ。行くよ。映画館でもイタ飯屋でも。これでも感謝はしてるんだ。ちょうど煙草も切らしたとこだし」
『煙草とか、堂々と言わないでよ。未成年でしょ』
「“いつからそんなに真面目になったのか”って、そっくりそのまま返してやるよ」」
待ち合わせの約束をして、電話を切る。のろのろと服を着替え、彼は部屋を出た。燦然たる日差しに目を細め、立っているのも億劫そうに溜め息をつく。これからデートに赴くとは思えないほど気怠げな表情を浮かべ、だらだらと歩き始める。そんな姿でさえ絵になる彼に嫉妬するかのように、夏の太陽は破壊的な光をばら蒔いていた。