凪いだ海に落とした魔法は 1話-2
日下部沙耶との思い出を閉じたアルバム。その最初の1ページはそんな珍しくもない風景から始まった。
僕が日下部沙耶を始めて見たとき、きっと彼女は学年のマドンナとして君臨することになるのだろうなと、そんな風に思っていた。でも、現実は違った。
日下部沙耶はアイドルのような存在にはならなかった。
友人を作らず、必要最低限の言葉しか人と交わさず、彼女は孤独に生きていた。友人がいないどころか、彼女は笑顔さえ浮かべることはなかった。
まるで組み込まれたプログラムだけを忠実にこなすアンドロイドのように、彼女は飾りのない日々を送っていた。
始めは憧憬の眼差しで眺めていた生徒たちも、やがてそれに違和感を感じ始める。羨望は嫉妬に変わり、憧れは理解の及ばないものに対する忌避に変わった。
――15歳の彼女は、どうしようもないほどに孤立していた。
没個性の時代。その象徴としてまず槍玉に挙がる僕たち"ゆとり世代"だが、さすがに数百人も集まればその中から突出した存在も出てくる。女子生徒で言えば、くだんの日下部沙耶がそれにあたる。僕はその手の噂に疎くて知らなかったが、どうやら男子の中にもそれに概する有名人がいるらしかった。
「さわざき、たくや?」と僕は言った。
「そう。沢崎拓也。クラスは違うけどな」
斎藤という男子が宙に小さく字を書いて言った。アルコール中毒で小刻みに震えているような仕草だった。
教師のいない自習中の教室は、適度な騒がしさに包まれていた。隣の教室で授業を進めている教師が注意にこない程度の声量を保ちながら、それぞれ歓談に花を咲かせている。
「聞いたことないな。誰?」
「志野、本当に知らないの?」
「知らない。嘘つく意味もないだろ」と僕は言った。
「それはそれは」
斎藤は溜め息をついて僕を眺めた。生温かい目で、あまり気持ちのいい視線ではなかった。
「その沢崎拓也が、何?」
「見てみろよ、あっち」
彼の指し示した方には、テニス部の矢口という女子がいた。数人の女子に囲まれて、何やら励まされているような雰囲気だったが、紙一重の差で物笑いの種にされているような感じもした。
「無謀なことに、告白して振られたらしい」
「その、沢崎拓也に?」と僕は訊いた。
「その、沢崎拓也に」と斎藤は笑った。
無謀なこと、と言うからには、沢崎拓也とは矢口クラスの女子では釣り合いが取れないと、そう思われるようなレベルにいるのだろう。矢口だってどちらかと言えばモテる部類に入りそうなものなのだが。
「モテるんだ? 沢崎拓也」
「この学年のモテ野郎の中でも、頭ひとつ飛び抜けているね。かなり“危ない奴”だって噂はあるけど、そういうタイプのほうがモテるんだよな。お釣りでそこら辺の男子が5〜6人は買えるよ」と、そこら辺の男子には聞こえないように声を落として斎藤は言った。
もちろん、僕も斎藤も“そこら辺の男子”の一人だった。
学年中に噂の広まるような男子とはどのような外見なのだろう。少し気になった。
「例えば、日下部沙耶と付き合ったら釣り合うような?」
同じく学年中の有名人が頭に浮かび、引き合いに出してみる。
「ああ、そうだなあ。うん、確かに。沢崎拓也と日下部沙耶なら、みんな納得するかもしれないな。美男美女で、お似合いだ」と彼は頷いた。