凪いだ海に落とした魔法は 1話-18
「――いや」と彼は言ってタバコを灰皿に揉み消す。
「そういや金を稼ぐために呼んだんだっけ」
僕は口にしかけたグラスを離して顔をしかめた。
「ビール代じゃなくて?」
「ピザ代でもなくて」
「僕から?」
「いや、俺とお前が」
「ネズミ講?」
「違うよ。壺とか布団とか売り付ける気でもない。もっと――」
「ああ――分かるよ。その顔を見れば、何となく。嫌な話をする気だな」
僕はビールを口にした。この苦い飲み物は何なのだろう。これが麦から作られているなんて絶対に嘘だ。何かグロテスクな虫のエキスでも絞り取っているに違いない。
「"割りのいい話"と言ってくれ。一石二鳥のおいしい話さ」
沢崎は喉を鳴らしてビールを咽下した。彼の味覚細胞はすでに老化が始まっているらしい。
「おいしい話か。リスク抜きなら歓迎するけど――。それを語る人間は大事なことを話さない」
「あのな、リスク抜きのおいしい話なんてアルコール分のないビールみたいなもんだ。どれだけおいしかろうが、酔えなきゃ意味なんてない」
心理のように言う。
「酔う?」
「いい気分だぞ。誰かを騙して金を稼ぐってのは」
頭が痛かった。それをアルコールのせいにできるほど飲んではいなかった。誰かを騙して金を稼ぐだって?
「騙されたほうは、いい気分になれないことは知ってるか?」と僕は訊いた。
「騙すとは言っても、お前が考えてるのとは少し違うんだ。別に誰かが損をするわけじゃない。全てがうまく回れば、みんながハッピーになれる」
「もういい。具体的な話をしてくれないかな。その、みんながハッピーになれる話とやらを」
彼は頷き、立ち上がった。
「何処へ?」
「待ってろ。今持ってくる」
「何を」
「みんながハッピーになれる物」
そう言って沢崎は店の奥にある階段を登り、消えていった。
ひとり取り残された僕はピザを摘まみながら、どう断ろうか考えていたが、ふた切れ目のピザを口にしたところで止めにした。断りかたなんて考えるだけ無駄なのだ。そんなことに頭を使うのは"断りづらい立場"にいる人間だけでいいはずだった。嫌なら素直に断るべきだし、それを否定する権利が沢崎にあるはずもない。僕が下手に出なければならない理由だってどこにもないのだ。
脂っぽくなった口の中をビールで潤して、代わりに襲ってきた苦味に顔を歪めたとき、沢崎が戻ってきた。何だろう。手には数十枚の用紙の束が抱えられていた。
「ビールは嫌いか?」
「らしいね。初めて飲んだ――で、それは何?」
おもむろに椅子に座ると、沢崎は笑いながら用紙の束をテーブルに投げ出して笑った。描き上げたばかりの絵をお披露目する子供みたいに自慢気な顔だった。
「見てみろよ」
僕は一枚だけ手に取り、みんながハッピーになれる物とやらをまじまじと眺めてみた。クレヨンで描かれた両親の絵を期待していたわけでもないが、今この場所では見るにはそっちのほうがよかったのかもしれない。少なくとも笑い話にはできる。