凪いだ海に落とした魔法は 1話-17
登録したばかりの電話番号が、僕の携帯を鳴らしたのが一時間前。電話の相手は聞き覚えのある名前を告げ、僕をここに呼び出した。あの無人駅でしか僕らは会ったことはなかった。学校ですれ違うこともなかったし、わざわざ会おうという気にもなれなかった。お互い学校をサボりがちだったこともあり、共有意識を保ちながら話せるのはあの場所でだけ――何となくそんな思いもあった。学校で会ってしまえば何かが壊れそうな気がしていた。会った途端に沢崎拓也を「その他大勢」にカテゴライズしてしまいそうな自分がいることを、僕は知っていた。学校とはそういう場所で、そういう場所で彼と話す状況というのは、トイレで食事をするような不快感があった。食事が気に入らないわけじゃない。ただ、トイレはないだろうトイレは。そんな感じだ。
そんな僕だから、彼に電話で呼ばれたときには戸惑った。日付が変わった深夜に、「ちょっと来てくれ。あの店知ってるか? 学校の近くの――」と、出し抜けに言われただけでも躊躇するのに、それが「頼みがある。お前に取っても悪い話じゃない」という、明らかに"悪い話"を持ちかけようとする言葉とセットなら尚更だ。
根拠もなく、あの場所以外で彼と親しげに話す機会はそうそう来ないだろうなと、そう思い込んでいた僕には不意打ちだった。
しかし、その彼――沢崎拓也は、実際に会ってみると、いつも通りだった。なかなか悪くない。悪くないというのは、退屈な言葉を使わない、そんな意味。例えどんな非常識な男でも、退屈な言葉を使わない奴が相手ならば、"悪い話"に乗ってやってもいいかもしれない。
そう思ったからこそ、僕はまた「参ったな」と呟いた。
悪い話に乗ってやってもいいかもしれないだって?
歓迎できない感情だ。
あいつに出会ってから、確実に僕は変わり始めている。
沢崎が戻ってきた。手にしたトレイにの上はビール瓶とグラス、ピザの乗った皿。一目で冷凍食品であることが分かった。チーズも少なければ具も少ないし、そのくせ生地だけは厚い。別にそれ以上は望まないけれど。
「食えよ。お前も飲む?」
「原チャリなんだ。こんな時間に電車で来れるわけないだろ」
「だから?」
「だからって――まあいいや。ほんの少しだけなら」
「そうこなくちゃっな」
酔うことの意味は知っている。積み上げたジェンガの底を横からポンと叩いて崩すみたいに、蓄積された不満や苛立ちを、アルコールで流し込む行為には、それなりに意味があることを。あるいは逆に、何も思い出すことのない時間を作ることもできる。眠りのようにクリアな時間だ。酩酊することで、心を周りの時間から切り離し、その場しのぎの休息を得るのだ。
沢崎がグラスを差し出し、僕はそれを受け取る。彼がビールを注ぐのを眺めながら、僕は思った。このビールは僕にどんな時間を作り出す気だろうか。酔わせた勢いで彼の頼み事とやらも一緒に呑み込ませるつもりかもしれない。
でも、違うだろう。目の前に人がいたら酒を飲ませるのがこういう店で、沢崎拓也はそういう店に産まれたのだ。それ以上は何もない。
「金は取る?」と僕は訊いた。
「取るならもっと高いものを出すさ」と彼は言った。
「出されてもこっちには出すものがないんだ」
「金を稼ぐために呼んだわけじゃないよ」
沢崎はそう言って笑ったが、どうにも中途半端な笑い方だった。自分の言葉で何かを思い出したような顔だった。