凪いだ海に落とした魔法は 1話-16
恋人へ贈るプレゼントに等しき丁重さで、テーブルの上に用紙の束を置き直す。代わりに携帯電話を手に取り、沢崎は期待に胸を膨らませて電話をかけた。
古臭いセンスのネオンサインが煌々と照らす小さなドライブインの駐車場へ、僕は原付を滑り込ませた。ベルトの緩んだ送風機のように不快な音を出すエンジン音が静かになると、入れ代わりに虫の羽音が耳を打つ。店の入口には電撃殺虫機が光っていて、紫外線ランプに誘われて飛び回る虫たちを、バチッ、バチッと撃墜する音がたまに聞こえた。踏み潰されたタバコの吸い殻と仲良く添い寝することになった彼らの死に様に、同情する者はいない。そういう人間は午前1時に録に話したこともない奴から電話で呼び出されることはないだろう。
アスファルトから一段上がった煉瓦のテラスに、ひどく柄の悪い男が腰かけていた。両手で隠すように手にしたアルコールのポケット瓶を見るまでもなく、目付きで泥酔していることが分かった。決して関わってはいけない類いの男だった。彼に目を合わせないようにして店内に入る。タバコの煙に溶け込む眠そうなジャズの音色が居心地の悪さを感じさせた。特に用事がない限り、入りたいと思うような店ではなかった。
ざっと店内を見渡し、目当ての顔を見つける。そう見慣れた顔でもないけれど、この店では僕と同年代の顔は嫌でも目立つ。僕は彼に歩みより、挨拶もなしに椅子に腰かけた。
「前の席、いいかな?」
「もう座ってる」
「嫌なら立つさ」
「それは俺の自由じゃないな」
「僕の自由だ」
「その通り」
僕は頷き、何となく店内を見回してみる。シックな色で統一された壁紙とテーブル。ジャズを垂れ流す古ぼけたスピーカー。カウンターの向こうには無数の酒瓶。そのどれもが僕に対して素っ気なかった。お前にはまだ早い店だ。みんながそう言っていた。
「落ち着かない店だ」と素直な感想を口にした。
「俺だって落ち着かないさ。そわそわするね」
「安心した。こんな店でくつろげる16歳とは友達になれそうにないから」
「ふむ。産まれたときから趣味が悪いってことだな」
「何?」と僕は聞き返す。
「趣味の合わない家に産まれたんだ。未だに落ち着かない」
僕は意味もなくまた辺りを見回した。そして訪ねる。
「じゃあここ、君の家?」
「我が家へようこそ。ドライブインなのに酒を出すのが主な店だ。趣味が悪いというか、どうかしているよな。飲酒運転を奨励しているとしか思えないだろ。でもまあ、俺の部屋は離れにあるし、女も連れ込める。その点では、悪くない家だ」
つまらなそうにそう言う彼は、やはりつまらなそうにタバコに火を付けた。目の前には空のビールが二本あった。未成年が自宅で堂々としたものだ。
「我が家か」と僕は言った。まるで彼のためにあるとは思えない家だった。出会いのために、あるいは別れのために、酒を何杯か飲み、会話をし、ジャズを聴くために、いっとき過ごすだけの家だった。人が生活を送る場所には見えない。
「お前、腹は減ってる? 俺は減ってる。運動した後なんだ」と彼は言った。
「まあ、少しだけ」と僕は答えた。
"こんな店"呼ばわりしたことを謝るタイミングを失ってしまったが、まあいいか、とすぐに忘れることにした。非常識な時間に呼び出されても文句ひとつ言わないだけで充分お釣りがくるのだ。
「ちょっと待ってろ」
彼は立ち上がり、カウンターの裏側に入っていった。初老の男性(父親だろうか)に何事か話しかけ、手慣れた様子で夜食を用意し始める。
「参ったな」と僕は言う。その呟きは思いよりも先に零れ出た。口にして、その語感を確かめた後で初めて「参ったな」と僕は思った。