凪いだ海に落とした魔法は 1話-14
「やっぱさ、我慢は体によくないよな。馴れ馴れしいのは苦手なんだよ。距離感を取り違えないで欲しいっつってんの」
突き放すわけでもなく、ただ脱力した口降りで、かったるそうに肩を揉みながら沢崎は言った。目の前の女には、もう1キロカロリーも消費してやる必要性を感じられなかった。
「何よそれ、そっちから誘ってきたくせにっ――」
「いや、俺はあんたを部屋に上げただけで、セックスに誘った覚えはまったくないよ?」
「ひどい」
「よく言われる」
「最低」
「価値観によるだろ。一般論で俺を測らないで欲しいな。もういいからさ、服着なって。裸で帰る気かよ」
忿懣やるかたないといった態度で、彼女は床に脱ぎ散らかした服を着込み始める。何やらぶつぶつと不平不満を吐露していたが、沢崎は雑音として聞き流す。
「おいおい、ブラ忘れてるよ」
ベッド下に放置されていたベロア生地の下着を、指先だけで摘まみながら差し出した。汚物でも扱うかの如くぞんざいさだ。女はひったくるようにブラジャーを奪い、怒気に満ちた形相で彼を睨み付ける。こめかいに浮いた青筋が何にやらおかしくて、沢崎は押し殺した声でくっくっと笑った。小馬鹿にした態度が怒りの火に油を注いだのだろう。股間を拭いてしわくちゃになったティッシュを沢崎の顔面に投げ付ける。沢崎は甘んじてそれを受け止めた。
「よしよし。"おめかし"が終わったら、回れ右。ドアを開けて、さようなら。また逢う日まで」
「二度と会わないっ!!」
「そいつは誠に重畳。元気でね。君に幸せが訪れますように」
「アソコが爛れて死ねっ!!」
下品な罵声を置き土産に、床が抜けそうな足取りで女は部屋を出ていった。代わりに訪れた夏の宵の静寂を、沢崎は歓迎する。
――まあ、最後だけは面白い女だったかな。アソコが爛れて死ねだって? 流石にそれは初めて言われたな。
ベッドに体を投げ出し、ふいごを吹くように長い息を吐き出した。若い股間は未だに疼きを覚えていたが、自分で処理するのも億劫だった。次はもっと割り切りのいい女を呼ぶことにしよう。否、もうしばらく女遊びはいいかもしれない。何せ、もっと"面白そうな奴"を見付けたのだから、と彼はひとり、忍び笑う。
――誰しもがそうであるように、沢崎拓也にも、どうしても理解できない人種というものが存在する。許容不可能な人種、と言い換えてもいい。自分が最も嫌悪し、腹の底から侮蔑するカテゴリーに属した連中。先程の女もその枠内にいた。否、女というものは得てしてそういうものであると、彼は認識を新たにした。
『バイクに乗って、何処か遠くへと旅立とう』
沢崎拓也には夢がある。彼がその夢を語るとき、いつも人は決まりきった反応を示してきた。露骨に嘲る者こそいないが、そのリアクションは彼を不快にさせるには充分だった。幼稚な願望であることは自覚している。だからこそ、叶えるに値するとも思っている。少年時代の無垢な夢を実現させることのできた人間が、どれだけいるというのだろう。自分はそれを成そうとしているのだ。称賛はされこそ、笑われる覚えはない。悪意なき失笑や、叶わぬことを知りながら子供の壮大な野望を微笑ましく見詰める大人の目。そんなものが、沢崎拓也は反吐が出るほど疎ましかった。
――夢も見れない連中が、何を一段上に立ったつもりでいるのだろう。物分かりのいい顔をして、「いつか叶うといいね」なんて上から目線の激励など、虫酸が走る。
それでも彼が、臆せず人に夢を語るのは、夢とはいつか覚めるものだという現実を知っているからだ。言葉にして、人に聞かせて、呆れられて、笑われる。そこで折れるような脆弱な心根は持ち合わせてはいない。執念深いことに、笑われた腹立たしさはひとつ残らずストックしてある。それを糧に、いつか必ず、夢を叶える。