『踏切の幻』-2
「あー、ケガしてる。血、出てるよ」
彼は急に僕の意図から興味が移ったのか、僕の左手首に目を留めた。
ほんの三、四歩の僅かな距離から駆け寄ってきて、夕立に濡れた僕の左手首を掴む。
顔を上げた僕の髪から、雨粒が散った。
──────今一番触れられたくない傷だ。
此処に来る前、僕がいくつも痛みを刻んだ疵痕。
いつもの癖に更に歯止めが利かなくなったみたいで、何度も切りつけたそれから血が止まらない。
死ねる程では、ないんだけれど……………。
「なんでもない」
「イタイ?」
僕が手を引こうとしたが、サキトは掴んだ手を離さずにそう訊いてきた。
「この程度なら死なない」
「ちがう……………この中」
サキトは指先で僕の胸に触れた。
サキトはゆっくりと一呼吸置いた。
憂いと優しさの丁度合間にある表情が夕陽に映えるから、その僅かな刹那、僕は彼から目を離せなくなる。
「手首にキズあるヒト、この中が……………すごくすごく、イタイ」
サキトはゆっくりと言葉を紡ぐ。
ほんの少しサキトの指先に視線を落としてから、もう一度彼の顔を見ると、やんわりと暖かな眼差しに包み込まれた。
……………何故だろう、自然と涙が零れた。
「泣かないで。ヘーキだから」
サキトは長袖のYシャツの袖で僕の血を拭うと、ポケットから出した大きめのハンカチを傷口に巻いた。
一本ではない疵痕を、全て覆う。
「ボクら、トモダチ。でしょ?哀しかったらボクがいる」
ハンカチの端をきゅ、と結び、サキトは目を伏せた。
「ずっとずっとトモダチいなかったんだ」
そう、呟くように付け足して。
不思議とそんな彼の前で羞恥心がわかず、僕はただぼんやり道端の濡れた草を見下ろし、涙を拭う事すらしなかった。
「なかよしだったの、マイコちゃんだけだった」
サキトは血を拭った方と逆の袖で、ほったらかされた僕の涙をそっと拭き取った。
「マイコちゃん?」
「うん。ボクの妹だよ」
彼の口にした名前を繰り返すと、サキトはにっこり笑って答えた。
妹がいるんだな……………僕と一緒だ。
「……………だった?」
そして僕は、彼が過去形にした三文字を聞き返した。
「マイコちゃん、ばらばらになって天国にいっちゃった」
サキトは相変わらず甘ったるい口調で、そんな事を云った。
「え……………?」
「ボク、いつも早く踏切渡るんだ。小さい頃ね、踏切渡るの怖かったんだ。だからボクは走って渡るの、こうやって」
絶句する僕の横をすり抜け、サキトは踏切を駆け抜けた。
渡りきって、こっちを振り向いて微笑む。
真っ正面から夕陽を受けているのに、サキトは全然眩しそうじゃない。
「でも、あの時ちゃんとボクがマイコちゃんの手をひっぱってあげなかったから。マイコちゃん転んじゃって……………」
サキトは線路に視線を落とした。
哀しそうな顔はせず、ただ神妙な面持ちで。
「怖くて、遮断機に閉じ込められてるマイコちゃん助けられなかった。電車にぶつかってばらばらになっちゃった」
最後にそう云って、サキトは顔を上げて僕を見た。