第1章 夏の日-2
「…あ、この匂い」
広い家中にたちこめる、線香の香り。
幼い頃から、仏壇のない我が家では嗅ぐことがないこの香りに触れる度に、ばぁちゃんちに来たんだと実感していた。
「あれ?そういえば、ばぁちゃんは?」
「……」
一瞬の、沈黙。
「何だ、亮には話してないのか?」
ややあってから、武夫伯父さんが隣の親父に小声で尋ねるのが聞こえた。
「…いや、あんまり先にいろいろ伝えておくより、実際に会った方がいいと思ってさ」
なんだ、それ?
「ばぁちゃん、いないの?老人会?」
「亮。かぁさんな、今ここにはいないんだよ。…去年の暮れから、老人ホームに入ってるんだ」
俺の中のイメージじゃ、親戚が集まった席ではいつも酒飲んで歌ってるようなふざけたおっさんだったはずの武夫伯父さんが、ちょっと苦い顔して教えてくれた。
だが…老人ホーム?
老人会とは違うのか?
「亮ちゃん。おばあちゃんね、年取ってボケちゃってね。家には住めなくなってきちゃって…」
「マジで?うわぁ、ばぁちゃんボケ老人かよ〜」
「亮!!」
事の経緯を説明してくれていた広子伯母さんの声にかぶせるかの勢いで、おもわず素っ頓狂な反応を返しちまった俺。
悪気があった訳じゃないんだけど、テレビとかでよく特集なんかやってる『ボケ老人』にばぁちゃんがなったということが、なんだかちょっと面白い気がしちゃって…。
でも、そんな俺の声は親父の怒鳴り声にかき消されちまった。
…ビックリ。
あの、のんびりとした性格の親父が怒鳴った。
でも、俺は正直、なんでそんなに怒鳴られなきゃならないのかわからねぇし。
ちょっとふざけただけじゃねぇかよ。
「…なんだよ」
重い空気が流れた。
「まぁ、亮は明日にでもかぁさんに会いに行こう。きっと喜ぶから」
その場を取りなすかのような武夫伯父さんの明るい声が響く。
「…あぁ。俺、ばぁちゃんに帰ってきたら団子作ってって頼まなきゃ〜」
いい歳して親父に怒られた恥ずかしさから、俺はわざと甘えた声を出してはしゃいだ。
親父も、それからは何も言うことなく、話題は加奈の学校のことやら俺の進路の事やらに移っていった。
ちなみに、高校2年の夏だというのに、俺の進路は真っ白だけどな。
そして。
その翌日、俺は心の底から思い知らされることになる。
この時、何も知らずにどこか浮かれた気分でいた自分の愚かさと、死に向かって生きる『老い』という現実を。
第1章 夏の日(終)