聖夜(その1)-8
…あなたとこの大好きな湖をふたたび肩を並べて歩けるなんて思ってもいなかったわ。あなたは、
私を怨んでいると思っていた…
でも、わたしは今でもあなたと別れた理由がわからないの…好きだった…ほんとうにあの頃、あ
なたが好きだったし、わたしたち愛しあっていたわよね…わたしもあなたも、それを拒む理由も
なかったわ…
でも、あなたは最初からわたしをあきらめていた…私の肌を撫でるあなたのため息は、あまりに
静かすぎるほどだった…でも、あなたが私を愛しているという心は、美しすぎるほど透明だった
わ…わたしは感じていたのよ…でも、それは氷の化石のようにあなたの心の内側に閉じこめられ
たものだった…わたしはそれに触れることも、キスをすることもできなかったわ…
あなたの心には、わたしと出会ったときから、いつも涙のしずくが散りばめられていたわ…そう
でしょう…わたしを愛したから…わたしのために…わたしはその涙をぬぐってやることもできな
かった…わたしがどんなにあなたを愛しても…
妻の過去を知りたかったが、妻が残していった持ち物の中には過去を示すものは何も残ってはい
なかった。結婚直後にイタリアを旅行したときの写真…妻の結婚以前の写真と言えば、高校時代
にテニス部にいた頃の眩しいほどの白いスコート姿の初々しい麗子の写真だけだった。
おそらくK…氏と結婚したときに、すべてを麗子は処分したのかもしれない。
そう言えば、あのイタリアへの旅行でひとつだけ麗子がどうしても行きたいと言った場所があっ
たことをK…氏は思い出す。
一週間ほどの短い旅だったが、南欧特有の陽光がふりそそぐ六月に、K…氏と麗子はローマから
イタリア中部のウンブリア地方の古い街を訪ね、フィレンツェへとゆっくりした列車の旅を続け
た。赤い煉瓦色の街並みを背景に、穏やかに流れるアルノ河にかかるヴェッキオ橋の上で撮った
水色のワンピース姿の麗子の写真…あのころの麗子の瑞々しく美しい姿だった。
そして、そのとき麗子が見たかったのは、ミケランジェロ公園の裏手にあるひっそりとした林の
中の教会にあった彫刻だった。
礼拝堂の側廊の中程にあるピエタ像…いや…それは、ピエタと言っていいのかK…氏にはよくわ
からなかった。美しい女性が、横たわるように死んだ若い男の裸体を膝に抱いている姿は、おそ
らく、聖母子像であろうと思われるが、慈悲という言葉にはほど遠く、肉惑的な柔らかい表現は
どこか性的な妖艶ささえ漂わせながらも、あまりに禁欲的なものを感じさせた。