聖夜(その1)-7
その男は、あの青年か…
K…氏は喉元まででかかった言葉を呑み込んだ。妻の視線は雪の向こうの森閑とした闇を見てい
る。嫉妬に似た息苦しさが胸を締めつけてくる。窓の外の闇の中に、妻の姿が溶けて消えてしま
いそうだった。
サナトリウムの朝は早い。妻は早朝にひとりで湖畔を散歩することが多い。K…氏が病室に着い
たときには、すでに妻は外出していた。妻の病室の窓から、朝靄に包まれた湖の風景をじっと眺
める。
そのときだった…ふと、眼についた妻のベッドの枕の下に隠れていた薄いノート…何気なくK…
氏はそのノートを開いたのだった。
…私はあなたがきっとどこかで生きていると思ってたわ…信じていた…だからきっと、あなたと
またここで会える気がしていたわ…
ええ、言ったでしょう…私には夫がいるわ…あのとき、あなたに最後に告げたとおり、わたしは
結婚したわ…父親くらいに歳が離れている人…
あなたと別れてから、わたしはどうしていいのかわからなかった…もう、あなたのことを心の奥
深い遠くの空に刻んでおくしかなかったわ…すべてを忘れるしか、わたしたちに残された道はな
かったのよ…
…だから、あなたがあの湖で行方不明になったことを聞いたときは、ほんとうにどうしていいの
かわからないくらい悲しかった…自殺なんて言う人もいたけど、わたしは決して信じなかったわ。
でも、こうしてあなたの元気な顔を見てほっとした…やっぱり、あなたは生きていた…
もう、すっかりわたしもオバサンになってしまったけど…えっ…あの頃と変わらないって…うれ
しいわ、そんなことを言ってくれるなんて…
ここは、わたしにとっては忘れられない場所…あなたが初めてわたしの肩を抱いてキスをして
くれたところだわ…覚えている…あなたは女の人にキスをしたのは初めてだと言ったわ…震える
あなたの唇には、どこか春の風の匂いがした…ちょっとぎこちなかったけど…
ええ…わたしは病気を患っていて、ここのサナトリウムに入院しているの…また、こうしてあな
たと会えるわね…あの頃みたいに…ううん、そんな悲しい顔をしないで…また、こうして会える
から…
眠れなかった…。妻が相手に語りかけるように綴ったノート…おそらく湖畔で会ったという昔の
あの恋人へ綴ったものだろうか…。K…氏はあの本にはさんであった青年の写真を手に取る。
口に含んだブランデーが、じわじわと息苦しさを増しながら胃の中へ流れていく。高層マンショ
ンの部屋の窓硝子に、麗子の歪んだ顔が浮かび上がる。
K…氏は、ふと思うことがあった…妻のいったい何を自分は知っているのかと…。
妻の恋人…失恋したのか…どうしてふたりは別れたのか…別にそんなことを今まで知る必要もな
かったといえばそうかもしれない。しかし、妻の顔の影の中に、なにかK…氏が触れられないも
のが漂っているのを強く感じるのだった。