龍之介・壱-1
<2010年10月・・・龍之介24歳・葵25歳>
「良かったじゃないか。おめでとう・・・」
出来るだけ明るい声で答えようとした。
だが、急に思考回路と共に凍り付いた喉では難しかったのかもしれない。
『嬉しそうじゃないわね。もう嫉妬する歳でもないでしょう、龍之介』
「違うよ。咳が出そうで」
わざとらしい咳払いで誤魔化した。
母さんはそれ以上気にする素振りも無く、話を続ける。
『来年の1月31日に挙式ですって。あんた、スーツ持ってるの?』
「自分で用意しとくよ。じゃあ、また電話するから」
一方的に電話を切って、力なくその場に置いた。
(姉さんが結婚する。姉さんが結婚する。姉さんが、結婚する)
告げられた事実を頭の中で反芻する内に、ようやく意識が戻ってきた。
転勤の都合でたった一人、実家からそれなりに離れた場所に引っ越してきた。
それから仕事漬けの日々を送っていて、すっかり姉さんの記憶は過去の物になりつつあった−
思い出せない訳では無い。
だが、考えても特に何とも思わなくなっていた。
しかし、覆っていたはずの靄が残らず払われて、目の前に迫ってこようとしている。
情けなく、惨めな、どうしようもなく暗い思い出が・・・
「1月の・・・最後の日か・・・」
言われた日付は奇しくも、このアパートに越してきた前日だった。
俺が姉さんと暮らした場所を後にした日・・・
あれからもう何年だろう。去年の2月に越してきたから、もう2年は経とうとしてるのか。
その間一度も俺から姉さんに接触はしなかった。
姉さんからは何度も電話やメールが来たが、通話せず、目を通さずに削除していた。
ずっと続くのかと思ったがすぐに来なくなったので、胸を撫で下ろした。
「相手は誰だろう」
・・・別に、いいか。どうだって。
いつかは挨拶しに行かなくちゃならないが、その時に名前でも聞いておけばいいだろう。
まだ気が早いがもうすぐその人のものになるんだな、姉さんは。
俺ではどうやっても姉さんを大切に出来なかった。
何度一緒になっても、自分の欲望を優先するばかりで、姉さんの気持ちなんて考えなかったよな。
「・・・おめでとう、葵」
携帯のディスプレイに表示された姉さんの番号に囁いた。
久々に名前を口に出した、気がする。
昼も夜も呼んでいたのに今はそうする必要すら無い。
俺は一人だ。
そうなる事を望んだ。姉さんから離れるのを願った−
転勤は単なる切っ掛けにすぎない。
近いうちに自分だけの場所を作るつもりだったんだ。