幻蝶(その1)-7
「おれたち、結婚することになったんだ…」
えっ…トモユキの突然の言葉に、ボクは返す言葉を失っていた。
瞳の中が、ぼんやりと暗くなる。亜沙子さんは、どこか冷たい笑みを浮かべながらボクの方を
覗きみている。笑っていた…その言葉にボクがどんな顔をするのか楽しんでいたのだ。
「えっ…そうなの…お、おめでとう…」
ボクの戸惑った言葉に、亜沙子さんはどこか狡猾な笑みを浮かべていた。
「結婚式は、ここのホテルなの…ヤスオくんも、ぜひ出席してね…」
ホテルでふたりと別れ、深夜に家に帰る。ひっそりとした家の二階の部屋にボクは疲れたからだ
を引きずりながら入る。スタンドライトだけを灯す。飴色の淡い灯りが、殺風景なボクの部屋を
照らす。外は漆黒の暗闇に塗り込められた秋の静寂だけが重く漂っている。
檻に入れたアサちゃんはぐっすりと眠っているようだった。
亜沙子さんとトモユキの結婚式は一ヶ月後だった。
トモユキと亜沙子さんは、まだ再会してから一年ほどだったはずだ。トモユキは香港の支店にず
っといて、一年前に東京に戻ってきたらしい。
レストランでトモユキが、トイレに行くため席をはずしたときだった。
「…ほんとうは、わたしの方が結婚に積極的だったのよ…トモユキは、なかなか結婚することに
煮えきれなくて…わたしが痺れ切らしちゃったって感じ…」
グラスに触れた亜沙子さんの薄い唇が、ほどよく湿っているのが素敵だった。
「…だから…わたしたち結婚するけど、わたしって、まだトモユキに抱かれたことないのよ…」
亜沙子さんが小さな声でボクの耳元で囁く。亜沙子さんの胸元からいい匂いがボクの鼻腔の奥深
く漂ってくる。
「でね…今夜が初めてなの…ここのホテルに、このあと泊まることにしているの…」
ボクは部屋の洗濯物干し用のデッキに出てみる。秋の夜風がボクのお酒で火照った頬を包み込む。
空に散りばめられた星が、なぜか涙の雫のように煌めいていた。
どこからか切なさと悲しさがこみ上げてくる。亜沙子さんはトモユキと結婚するのだ。そして、
今、あのホテルでトモユキに抱かれている。亜沙子さんはボクがずっと彼女が好きなことを知っ
ている。
知っているのに…
亜沙子さんの笑顔の中に、どこか小悪魔的な影を感じていた。