熊次郎の短夏-3
『あら、あなたは確か……』
『あっ! 先日はお忙しいなか、案内までしてもらって本当に助かりました! ありがとうございました』
『こんな所で、ひとりでお食事ですか?』
『はあ、喫茶店ってのば体験しとこうと思いまして……ばってん、メニュー見ても分からんけん、適当に頼んでから食べよったとこです』
『ああ、そうですか。あっ、もしよかったら、連れも一人いますが同席させてもらえませんか?』
『えっ!? あ、ああ、そりゃあ、どうぞどうぞ!』
二回目の偶然は喫茶店だったね。
いま思えば、私はあん時に熊次郎って男に興味を持ったとかもしれん。
ふふっ、そして三回目の偶然は魚屋……いや、八百屋、八百屋の前だったよねェ。
あれが決定的だった。
もうこれは運命だって思ったもん。
今から五十年前の冬……出稼ぎに来とったじいさんと出会い、交際し、結婚した。
本業は農家ってことば聞いて、ちょっと不安だったばってん……私は本当に楽しかった。
毎日、毎日、楽しくて幸せでしょうがなかった。
後々、私の体には欠陥がある、子供が出来んって分かったとき、ごめんって言うた私ば激しく怒ったよね?
『おらァ、子供が欲しくてお前と結婚したっじゃなかァ!』
あんたと一緒になって、私が怒られたのは後にも先にもこれ一回だけだった……。
あん時、あんたに隠れて私がどれだけ泣いたか……。
嬉しかったァ。
ほんとに、嬉しかったァ。
はああぁぁ……明日になったら、また暫くは会えんとよ。
このまま朝が来んならいいのに……。
じいさんと一緒に居りたかなァ……。
なんも会話はなくて良かけん、毎日一緒に居りたかァ……。
ずっと、ずっと……ずっと傍におりたかァ……。
絹江は、恨めしそうに月を見ながら涙の出ない眼を悲痛に歪め、皺の増えた口元をワナワナと震わせた。
ミィーン、ミィン、ミン、ミンミン、ミイィィ―――
早朝から、一斉にけたたましい鳴き声を上げる蝉たち。
それと同時に、太陽の光が徐々に家の中へ差し込んでくる。
「う〜ん……朝かァ……あいた、知らん間にほんて寝てしもうた」
傍にいる絹江の前でわざと大きなイビキをかいてみせ、ずっと寝たふりをかませていた熊次郎。
だが身近に感じる絹江の存在があまりにも心地よく、いつしかすっかりと寝入ってしまったらしい。
ぼお〜っとする頭を軽くまわし、熊次郎は大きなアクビをしてから蚊帳の外へと出た。
「う、ううん……」
畳の上に座り、冊子を開けっ放しにしてある縁側へと眼を向ける。
熊次郎は、まだ腫れぼったい眼で瞬きもせず、その場所をジイッと暫くのあいだ眺めた。
「ふむ……ううむ……」
寝ぼけているかのように、小さな声で何度も唸る。
ひたすら縁側を見つめ、熊次郎はただ黙って座っていた。
その表情には、悲哀の翳がかすめていた。