【イムラヴァ:二部】三章:悪魔と狐-17
藍色の夜の大気のどこかから吹いてきた穏やかな風が、テントを膨らませ、また萎ませた。まるで、テントが呼吸しているようだ。アランは、自分が今濁った白色の肌を持つ大きな生き物の体に背中をくっつけているような気分がした。愚か者を飲み込んでは吐き出す巨大な怪物だ。
そのまま数刻が過ぎたように感じられた頃――というのも、実際には、月が身じろぎする程の時間もたっていなかった――「レナード、何してるんだよ」アランは苛々と、レナードが消えた方向を見た。いくら目をすがめてみても、なにも浮かび上がってこない。奥の方に、たった一つ明かりが消えないままのテントがあった。大きなテントからは少し離れたところにある。あれが興行主のテントかもしれない。レナードに言われたことが頭をよぎるより先に、アランは一歩を踏み出していた。ゆっくりと、足音を立てないように慎重に歩く。巨大なテントの中は、高いびきや歯ぎしりの見本市だ。一度か二度、寝言に驚いて立ち止まったものの、目指すテントまではもうすぐ、と言うところまで来た。その時、アランはレナードの忠告を聞かなかったことを、そもそもこの見せ物小屋に足を運んだことを、あの子を助けようと思った事を後悔した。
紛れもない鞭の音が聞こえる。くぐもった叫びとすすり泣き、そして、それが混ざった何とも言えない声が、鞭のぴしっと言う音の合間にアランの耳に届いた。
「この気違いめ!静かにしていろと、何度も教え込んだはずだぞ!」
アランは悲鳴を上げた――心の中で。耳をふさいでも、目を閉じても、この声からは二度と逃れられない。耳をふさごうにも、実際には指を動かすことすら出来なかった。呆然と立ち尽くす自分の足下から、氷のような戦慄と、炎のような憎悪がわき上がってくる感覚に身を任せていたのだ。
その時、本当は何をしようと思ったのか、後で何千回と思い出そうとしたけれど、確証を持ってこれだと言える答えに至ることはなかった。答えに届きそうになる度怖くなって、やがては、この記憶そのものから目を背けるようになる。
彼女は剣を抜き、テントの布にゆっくりと剣先を近づけた。
――布が悲鳴のような音を立てて裂け、そこから光と臭いがあふれ出し、自分自身に染みこんでいく様を思い浮かべた。驚いたような瞳が四つ、こちらを見返す。やがて片方が怒りにゆがみ、もう片方は諦念を浮かべたまま、暗い死の縁を再びのぞき込むように半分閉じられる。そして、彼女の剣が、大きな塊を貫き……
「よせ」
アランははっとして後ろを振り返った。剣を抜いたレナードが、アランの後ろに立ち、彼女の肩に手を置いていた。アランは依然としてテントの前に立ち尽くしていた。抜き身の剣を握りしめながら。
「よせ」彼はもう一度言った。「向こうにいろと言ったはずだ」
アランは何も言わず、テントから離れた。剣を握る自分の掌が滑りやすくなっている。その時初めて、自分が恐ろしいほど汗を掻いていることに気づいた。頭がくらくらして、自分の体が自分のものではないようにさえ思えた。アランはのろのろと剣を鞘に収めた。
白いテントに浮かんだ人影は、声を上げる間もなくバタリと倒れた。テントの中のランプが地面に落ちる一瞬前に、赤い血が迸るのを見たような気がしたが、よく分からなかった。それからすぐ、テントは燃え上がった。ランプからこぼれた油に火がついたのだろう。アランは呆けたように、その光景をじっと見ていた。レナードが再び現れてアランの手を引くあいだも、アランの目は、夜空を焦がさんと伸び上がる、眩い炎以外何も見ては居なかった。