【イムラヴァ:二部】三章:悪魔と狐-16
「レナード!」宿屋の階段を駆け上がり、倒れ込むように部屋の戸を開けた。寝ているかと思ったレナードはしっかり起きて居て、咎めるような視線を、息を切らし、床に倒れ込む寸前のアランに向けていた。
「アラン」レナードは静かに言った。その目はアランに据えられている。動揺のあまり、彼女の体中から汗が噴き出ていた。
「レナード、頼む……」体が、声が震えている。「助けたいんだ、あの子を……」
「見世物小屋に行ったんだな。あれだけよせと言ったのに」レナードはため息をついて首を振った。「助けてどうなるんだ?」
「どうって……」アランは、必死で息を落ち着けた。机の上に残っていた、気の抜けたエールを飲んだ。「あんなに痩せて、レナード、まるで枯れ木みたいだった。正気も失って……ひどい扱いを受けてた。檻に入れられて。今にも死んでしまいそうで!」
「お前が助けた後で、死にかけて、正気を失っているその子はどうすればいい?」
「生きていれば、どうにだって出来るじゃないか!」激昂するアランに対して、レナードはあくまでも冷静だった。アランは風に煽られる炎のように揺れ、レナードは鋼のように不動だった。
「どうにかして生き延びたとしよう。それで、その子が正気に戻ると思うか?アラン、お前は、その子が檻から出ればそれで満足なのか?」
「違う!」アランは地団駄を踏んだ。「違う、違う!でも、誰かがあの子のために何か、あの子の名誉のために……力がない、たったそれだけのせいで、あの子が望んでも叶えられない事を、してあげることが出来たらって……」
「あの子が何かを望んでると、どうして分かる?」
「でも……」
数秒の沈黙が、数時間にも感じられた。アランは両手に拳を作ったまま、足下のほこりっぽい床を見つめていた。まるで、そうしていれば、彼女を助けるために何らかの答えが浮かび上がってくるとでも言うように。やがて、レナードは立ち上がると、ベッドの支柱にかけてあったベルトをとり、フード付きのマントを羽織った。顔を上げたアランと目があると、
「何て顔してるんだ、お前」そう言って笑った。部屋を照らしていたランプを吹き消し、窓に足をかけ、人通りの少なくなった下の通りにさっと目を走らせる。手振りでアランにもついてくるように示す。アランがレナードの背後につくと、彼は通りに飛び降りる前に、小さな声で呟いた。
「なあ、この世の全てを救ってやれるわけじゃないんだぜ」
テントの周りは再び静まりかえっていた。今は、この広場全体が酷く不気味で禍々しい場所であるように思える。広場の奥の方にある大きなテントの中では、身支度を調えて眠りにつこうとする旅芸人たちが、一人、また一人とテントの明かりを落としていくところだった。
レナードはアランに、近くのテントの襞の中に隠れているように言った。
「私も一緒に……」
「俺の言うとおりにしなよ。今度はどうやってもパン屋の奉公人って嘘は通じないからな」
アランが再び何か言う前に、レナードはあの少女を捜しに出かけた。黒いマントをかぶった彼の姿は、アランから数歩も離れないうちに闇に溶け込んでしまった。