「Mになった女王様」-7
「そんな物ばかり食べてると体に悪いよ。」
聞き覚えのある声にドキリとして顔を上げると、弘志が笑顔で立っている。美恵は全身から血の気が失せるのを感じ、その場に買い物カゴを放り出して店の外へ駆け出した。
(逃げちゃいけない、逃げないでちゃんと謝らなきゃ)
頭では分かっていても、今の美恵には、まともに弘志の顔など見れなかった。スーパーの駐車場まで来た時、美恵の名を叫びながら走ってくる弘志の気配を感じて、美恵は観念したように足を止めた。近づいてくる足音が美恵の真後ろでピタリと止まる。恐る恐る振り向くと、あの懐かしい弘志の笑顔がそこにあった。
「あ… あの、ケガ…治ったの?」
目を合わす事が出来ず、下を向いたまま消え入るような声で尋ねた。
「全然大丈夫。もうピンピンだよ!」
明るく快活な弘志の返事が返る。だか美恵は下を向いたままジャージの裾を両手で押さえ、ボロボロと泣きだした。何か言わなくては、謝らなければ、と思うほど言葉に詰まり、出てくるのは涙だけだ。
だか次の瞬間、弘志は思わぬ行動に出た。美恵を思い切り抱きしめたのだ。美恵が思わず「痛い!」と叫んでしまうほど、太い腕はがっちりと、すっかり痩せて細くなった美恵を抱きこんだ。振りほどこうとしても、美恵のか弱い力ではビクともしない。
「先週やっと退院できた。この三ヶ月どんなにあなたに会いたかったか。」
少し落ち着いて大人びた声で弘志はささやいた。美恵は人目もはばからず、込みあげてくるものを我慢できずに、わんわんと声をあげて泣いた。
男の厚い胸板に力強く抱き締められる事が、こんなにも安心感が湧き心地よいものだとは思いもしなかった。自分と違って弘志という男は、精神的にも肉体的にもこんなに強い人だったのか、と思い知らされた気がした。
本当は自分も弘志に会いたかったのだ。誰もが自分を嫌う中、自分の事を分かってくれたのは弘志だけだったのだ。その弘志に会えないという事がどんなに辛かったか。今ここでこのまま、この太くて強い腕で潰されてもいい、それぐらい強く抱き締められたい、そう思った美恵だった。
それから二人は弘志の通う大学のそばに、学生向きの安いボロアパートを借りて一緒に住むようになった。弘志は学校の合間に法律事務所でアルバイトをし、美恵も近所のスーパーでパートをしている。お世辞にもいい生活とはいえなかったが、二人とも幸福だった。
「弁護士になれたら楽な生活をさせてあげるから。」
それが弘志の口ぐせだったが、美恵はたとえ弘志が弁護士になれなくても充分に幸せだ。六畳一間のアパートの部屋はいつも美恵がきれいに掃除していたし、毎日洗濯もする。ビーフシチューだって弘志より上手に作れるようになった。弘志のためにあれこれ世話をやく今の生活が楽しくてたまらない。近所の商店街の人達や、パート仲間の間でも「明るくて素敵な奥さんね」と評判が立っている。
そして何より週末の夜に、この狭い部屋で全身を麻縄で縛られて、弘志に深く情熱的に愛される事が、美恵がこの歳になって初めて得ることのできた女としての最高の悦びだった。弘志の掛ける縄の一本一本が肌に食い込み、体が砕け散ってしまいそうなこの快感は、間違いなくあの夜、スーパーの駐車場で芽生えたものだった。
押し入れの中に大切にしまってある麻縄の束を大事そうに胸に抱き、(これのおかげで私は生まれ代われたんだわ)
美恵は心からそう思った。
完