【イムラヴァ:二部】二章:鐘の音-1
第二章 鐘の音
「走れ、走れ。飛ぶことが出来ないのなら、飛ぶように走れ」
闇の中で、渡り烏が歌う。
夢の中で、彼は走っていた。黒い鳥が彼をせかす。でも、走るって、何処へ?
起きて居る時も眠っている時も、心は安まることがない。走ることが出来るなら、言われなくたって、そうするさ。
手を伸ばせば、左右前後、いずれかの壁に手がぶつかる。足を伸ばして眠ることも許されないこの石牢で、彼は正気を失い掛けていた。毎日眠りという無の時間を貪るためだけに、極限まで体をいじめ抜く毎日だ。壁に手と足をつけて体を浮かせ、筋肉が悲鳴を上げるまでじっとそうしている。歌うこともある、床に落ちている小石で壁や地面を削ってみたりもする。だが、安らかなはずの眠りの後には必ず虚脱感が訪れる。
気が狂いそうだ、畜生。いっそ狂ってしまったほうが楽になるのかもしれない。でも自分が狂い始めているという兆候――頭の中で歌いまくる渡りガラス――が、彼に正気を保たせた。いや、そんな声が聞こえる時点で、もう正気を失っているのかも。
『お前は哀れで愚かな男だ。お前はこんな薄暗い場所で体を丸めていて良い人間ではない』
「じゃあ、俺は何をしてればいい人間なんだよ?」
『さあ、耳を澄ませるのだ。お前は耳をふさいでいて良い人間ではない。全ての声に耳を傾け、またその全てを理解せよ』
渡りガラスが暗闇に降りてくる時、それは対話と修行の時間だった。答えのない謎かけが繰り返されるうちに、タバコの煙のようなもやの中に、ぽんと煙の輪が飛び出すような感覚を味わうことがある。
「俺はこそ泥だぜ。そんなこと神様にだって出来やしねえだろうに、この俺に出来るわけねえだろ」ぶつくさ言いながら、囚人は冷たい石の壁に手を置いた。
『語るのは言葉を持つものだけではない。言葉を持たぬものの中にこそ、真実が隠れている事も有る。朴訥な、頑迷な、賢明な沈黙の内に秘められたものを聞くのだ』
「ついでに言えば、お前はしゃべりすぎだよ」暗闇の向こうで、カラスが微笑んだ。男は目を閉じて、彼の体内の思考する場所から、石に触れている手、さらにはその先へと続く一本の道を通した。道は最初、何の抵抗もなくすっと伸びる。しかし、すぐに朴訥で、頑迷で賢明な沈黙とやらにぶつかって止まってしまう。いつもそこで行き止まりになるのだ。石たちが何かを感じていることは分かるが、どうやってそれを語らせたらいいのかが分からなかった。何年も城の礎として地面の中にあって、誰に見られることも、愛でられることもなかった石たちは沈黙する。人に愛される宝石と違って、礎たちは彼らの注意を引く方法を知らない。
囚人は一心に語りかける。自分が何者か、どんなことが出来るのか。
自分が何者か、か。こっちが知りたいくらいだぜ。
ぼんやりとしたざわめきの塊が、次第にこちらに注意を払うようになる。水の中の動きのようにゆっくりと、礎の意識が男に近づいてくる。黒い背景に浮かび上がる灰色の靄、その中から、くっきりとした輪が飛んできて、男の身体を通り抜けていった。