【イムラヴァ:二部】二章:鐘の音-2
『――ひさしぶりだね』
物音がして、男ははっと目を開けた。とたんに、伸びていた道も、そばにいたはずの渡りガラスも、声が聞こえた時の感覚も消え失せた。
「おい!飯だ!」
無遠慮な松明の光が差し込んだ。暗闇に慣れた目が悲鳴を上げ、たちまち涙で視界が曇る。いつもここまで飯を運んでくる男が、石の扉の隙間から今日の分の飯を投げ入れた。皿に盛るなんて事はしてくれない。犬も食わないような襖パンを2つ、薄汚れた袋に入れて投げてよこすのだ。男が礼を言うか、あるいは悪態をつく間もなく、石の扉は音を立てて閉まった。
再び暗闇の中に残されたクリシュナは、冷たい石の床の上で、彼にしか聞こえない渡り烏の歌を聴いていた。
事の発端は、数週間前に別れたチグナラとの再会だった。
大人数で旅をしている時でも、垢は溜まる。しかし、おおっぴらに自分が男装した女だと宣言するほど、エレンの難民全員を信用しているわけではない。事実、マイルスのような荒っぽい連中は、何をしでかすかわからない。だから、アランはいつもみんなが寝静まっている間に、烏も驚くような素早さで行水をする。その夜もみんなが寝静まったことを確認してから、ハーディに寝ずの番の交代を頼み、近くを流れる小川まで降りていった。小川は野営地から少しばかり遠いところにあった。川の近くで夜を明かすのは久しぶりだ。この期を逃したら、次はいつ豊富な水にお目にかかれるか分からない。急勾配を下ると、昼間水をくみに来て場所を確認しておいた小さな川が、木々の間に行儀良く横たわっていた。夜の闇を吸い込んだ黒い小川は、月の光を照り返して誘うようにきらきらと輝いている。
一人で水浴びをすると、グリーアの誤解を解いたあの夜のことを思う。そして、グリーア本人のことも。彼は、あの言い争いの後も変わらずアランに接した。まるで、あの夜の出来事は全て嘘だったとでも言うように。しかし、そうではないことは2人とも分かっていた。アランは答えを出せないことを恥じ、グリーアは彼女を急かしたことを気まずく思っていた。あの時、最初に彼がアラノアを見た時、もし彼が彼女の本当の姿を見ずにいたなら一体どうなっていただろうか。いつまでも、自分は出生の事実を隠して、こそこそとクラナドたちに紛れて生き延びようとしただろうか。冷たい川の水に足をつけて、しばらく水面を見つめていた。この季節の冷たい水を浴びると思うと、どうしても怖じ気づいてしまう。意を決して、服を脱ごうとしたその時――
「これ、そこな小僧」
急に声を掛けられ、アランは慌てて脱ぎかけたシャツに袖を通した。
「な、何だ?」
声のした方に目をこらすと、思っていたよりも近くに、見覚えのある老女の姿があった。数日前に別れた、チグナラの一行の一人だ。やたらと彼女の手相を見たがり、やたらと彼女の名前を連呼した盲目の婆さんだった。
「何だ、あんたか」アランは、身構えた身体の力を抜いた。「脅かすなよ、森林管理官か異端審問官かと思ったじゃないか」
老女は、森の中に不意に現れた石像のように地面に座っていた。片膝を立て、まるでそこが自分の家の居間であるかのようにくつろいでいる。もっとも、チグナラのすみかは森の中だから、彼女が自分の家にいるように見えたとしてもなんら不思議は無い。アランは辺りを見回し、老婆を乗せてきたと思われる、一家の手押し車を探した。