【イムラヴァ:二部】一章:暗雲と煙-6
「クリシュナ?」その質問に答えたのは父だった。「さあ、知らないね」彼は素っ気なく言い、手にしていた骨を火の中に投げ入れた。火の粉が一斉に舞い上がり、消えてゆく。クリシュナも、この火の粉のような存在だったのだろうか。ぱっと燃え上がり、音もなく消える。
この何年かというもの、クリシュナの話は絶えて聞かない。多分、どこかでのたれ死んでしまったか、ようやく分別を取り戻して、静かに、全うに暮らすことを選んだのだろう。もし捕まったのなら、トルヘアがそれを黙っておくはずはないのだから。
霜降る夜がやってきて、雨の名残が凍り付いた。こんな季節には、交代で起きて火の番をする必要がある。そうでなくても、狼や熊に襲われないためには、誰かが常に目を覚ましていなくてはならない。アランはアラスデアと一緒に、師に教えられた古語の詩を諳んじながら見張りをしていた。スミス一家は、ゆっくりと仕事道具を片付け、夜の行程を進む準備をしていた。
「思慮を欠いた力は……己の、重みによって崩れる。制御された力は、力は……」いびきの大合唱が、思考を妨げる。特にマイルスのいびきは盛大だった。「まるで象だな」
「象のいびきを知ってるの、どんな風に聞こえるの?」アランの傍らに伏せているアラスデアは、興味深げにアランを見た。
「まさか。昔話で聞いただけだよ。とにかく馬鹿でか……大きいんだってさ。いつかは本物を見たいけどな」最近、ロイドに言葉遣いをたしなめられるようになった。男ばかりの旅だから、遠慮が無くなるのも無理はないが、普段から気を引き締めていなければ、うっかり口を滑らせた時に柳の小枝の鞭が背中にあてられる。
「なんだ。でも、きっと大きいに違いないね。家ぐらい大きな獣だって聞いたよ。歩いたら地面まで揺れるんじゃないかな」アラスデアはすっかり大きくなった。初めの頃は猟犬を一回り大きくした位だったのが、今では馬よりは少し小ぶりと言うくらいまで育った。アランは相棒の柔らかな羽毛をそっとなでた。アラスデアは気持ちよさそうに目を閉じて、もっととアランにせがんでくる。
「アラン、ロイドにもらった本を読んでほしいな」
「また?もう百回は読んでるじゃないか」アランはそう言いながらも、ブルックスの鞍袋に手を突っ込んだ。アランもその本が好きだった。とっくの昔に墓の底で眠りについた誰や彼やの有り難いお言葉を暗唱するよりよっぽどましだ。大きな本だから、探さなくても何処に収まっているかすぐに分かる。アランは、本を膝の上に置いて開いた。
それは未完の戦記物語で、エレンの最後の戦いを描いたものだ。つまり、アランの祖母が国を出た頃の物語と言うことになる。この旅の間に多くの物語や歌を耳にしたが、どんな歌も物語も、この本に並ぶ言葉ほどには力強くない。誰が書いた本なのかロイドは知らないみたいだったが、写本ではないことは確かだ。装飾はほとんど無いし、挿絵もほんの数カ所、小さな落書き程度のものが描かれているだけ。それに所々、羊皮紙を削った荒っぽい跡がある。きっとああでも無いこうでも無いと、頭をひねりながら推敲を重ねたからだろう。写本には絶対にみられない特徴ばかりだ。こんなに立派な文体で、しっかりした装丁でなかったら、ただの覚え書きなのではないかと思うほどだ。未完なのが悔やまれる――この物語の作者は、おそらく死んでしまったのだろう。そう思うと、単語の一つ一つに作者の魂がこもっているような気がして、読む度にぞくぞくした。
アラスデアの好きな場面は知っている。王の元に集った最後の騎士達が、獣たちにまたがって最後の戦に赴くところだ。アランは、決して美しいとは言えない書体をすらすらと読んだ。もうほとんど暗記できるくらい読み込んでいるのだ。