【イムラヴァ:一部】十章:傷ついた獣-7
「父上が、君に本当の名前を教えた時。でも、遅かれ早かれ気付いてたはずだよ。だって、いつまでも隠し通せるようなものじゃないだろう……」ウィリアムは、心の中で付け足した。それに、君は男とは比べものにならないほど美しいんだから。彼はうつむいた。「ごめん」
観念したように、彼女はため息をついた。「それで、どうして結婚という話になるんだ?」
「僕は、君が命を狙われていることもしってる。でも、僕と結婚すれば大丈夫だ」
「そう言う問題なのか?ウィリアム、お前と結婚すれば、私の中に流れている血が薄まるのか?」
ウィリアムは黙っていた。アランの心は、油の入った壺のようなものだ。火花を落とせば、気高い使命の炎が燃え上がり、2度と消すことは出来ない。炎は明るく、多くの人の目を輝かせ、道を照らすだろう、しかし、その炎を心に抱く彼女は、きっとひどい火傷を負うことになるのだ。
「僕を信じて、アラン……アラノア。そう呼んでいい?きっとつらい思いはさせない。僕が君を守るから」
「やめろ」アランは言った。ウィリアムが驚いて顔を上げると、その表情に浮かんでいたのは恐怖だった。
「私を、女だなどと言うな」
「アラノア?一体――」
「その名前で呼ぶな!」押し殺した声は悲鳴に近かった。彼女の顔から血の気が失せ、視線はうつろにさまよっていた。彼女は何かから身を守るように両腕を抱き、膝を引き寄せてウィリアムから遠ざかった。
「アラン、僕が何か悪いことをしたなら謝る、でも――」
「違う、違う、違う」アランはうわごとのように言った。「お前のせいじゃない」しかし、彼女はウィリアムがさしのべた手を決して取ろうとはしなかった。
――静かにしな。
「いやだ、駄目なんだ」埃と、かびの匂いが蘇る。何故――?もうとっくの昔に終わったことのはず――もう二度と起こらないはずではないのか。そのために強くなった。男と同じになれるように。
――良い子にしてるなら、黙っていてやるぜ。
アランは何かを振り払おうとでも言うように激しく首を振うと、ぱっと立ち上がった。「ウィリアム、二度と私を女と思うな」
彼女の瞳は、傷を負った獣のようにぎらぎらと光っていた。彼女の心が固く閉ざされたのが、彼にははっきりとわかった。
「私たちは、友人だ」彼女は今度は膝をついて、懇願するようにウィリアムの手を取った。彼女の手は、汗でびっしょり濡れている。「友人だろう、な?」
「わかった」ウィリアムは、尋常ではない何かを感じたが、追求はしなかった。
小さな頃からずっとそうだったように、今夜も、彼は彼女の心の中の黒い箱を垣間見た。誰も手を触れることの出来ない箱。それは、今ではとても大きく頑丈になっている。彼女が自分とは別の世界にいることが、これではっきりとわかってしまった。二人の世界を隔てる壁は、以前よりもくっきりと、彼の前に立ちはだかった。
「わかったよ」彼はもう一度言い。アランを後にした。彼女が小さく「ごめん」とつぶやいたような気もしたが、ウィリアムは振り返って確かめはしなかった。