あべ☆ちほ-25
ふと見上げると、神経質な総合病院が夜の中に聳え立っていた。
たくさんの窓に明かりが灯っている。まるで希望みたいに。大晦日か、と僕は思った。
門を越える瞬間、さっきの曲の曲名を思い出した。
金管の魔術師、ラヴェルがオペラのために書いた15分の変調曲。
「ボレロだ」
僕の言葉は白く煙って寒空に消えた。
*
病院の神経質な廊下を歩きながら僕は子供の頃のことを思い出していた。あったことも幻のような遠い遠い昔のこと。
僕の家族がまだ全員生存していたころ、みんなで海に行った。6月、梅雨間に唐突に訪れた晴れた日のことだ。
父の灰色の車はなんだかよそ行きの匂いがしてわくわくした。高速道路をびゅんびゅんと飛ばすのがすごくうれしかった。
海はもちろんまだ冷たくて入れなくて、そこで親子三人で浜辺を散歩したんだ。
僕は貝殻を拾っては母に見せに行った。そのたびに母はすごいすごいと喜んでくれて、それを見て父がやさしく笑った。
そのうち母は靴を脱いで裸足で歩いて、少女みたいにはしゃいで。父もズボンをまくって波打ち際をずかずかと歩いて。
カモメがくうくうと鳴いていた。
くじらみたいな大きな雲がすっかり横切ってしまうのを見ていたり、鼻歌を歌ったり。僕はふと自分が一番幸せな子供だってことに気づいて、それでかみさまにお礼を言ったんだ。
かみさま、かみさま、ありがとうございます。
僕は幸せな子供です。
だから次は他の誰かを幸せにしてあ―――そして僕は405号室にたどりついた。
405号室のドアは最初から開け放たれていた。明かりだってついていた。千穂は起きていた。
「わ。びっくり。来てくれるなんて。どしたの?青い顔してるよ?」
外がとっても寒いからね、と言おうとしたと思う。でも口が動かなかった。
「入って入って」
また少しやつれた千穂は、それでもいつもどおり振舞ってくれた。