【イムラヴァ:一部】八章:クラナド-1
第八章 クラナド
月がどんなに明るい夜だろうと、夜の森に入ることに恐怖を覚えずには居られない。どの森にも当てはまることだが、コルデンの森と呼ばれるこの森にも、くっきりと、森とそうでないところの境界線が引かれていた。まるで、森が何か見えない力に抑えつけられて、それ以上こちらに出てくることが出来ないでいるようだ。しかし、いざとなれば、彼らはいともたやすくその境界線を越えてこちら側に来る事が出来るのだろうとアランは思った。木々は力に満ちている。そして、森の中は秘密に満ちている。いったん足を踏み入れてしまえば、そこには今までいた場所とは違う空気が流れ、今までいた場所で話されていたのとは違う言葉で会話される。草木も眠る、とはよく言ったものだが、アランはこの森の木々の内、眠っているものなど一つもないと思った。すべての木々が目覚めている。すべての木々が、この森の中にある何かを察知している。
「やっぱり、密猟者なんかじゃない」アランは確信してつぶやいた。しかし、彼女が期待していたものでもない。肌という肌が総毛立ち、髪の毛の先まで神経が通っているように感じる。足音を潜めるのも忘れ、今や駆け足になって、己の勘が導く方へ向かった。人の気配と、かすかに声が聞こえる。
アランは足を止めた。そこは、森の気まぐれが作り出した広場だった。馬は足を縛られ、人は地面に腰を下ろし、薄ぼんやりと光る薪の後を始末したりしていた。ついさっきまで、彼らはここで食事をしていたのだろうが、火はもう消えかかってしまっていた。かすかに見える輪郭はたくさんあり、かなりの大人数であることが伺えた。噂の大泥棒が、こんなに仲間を引き連れているという話は聞かない。じゃあ、何なんだ?教父の話した『悪魔』は怪物のはず。怪物が火をたくという話も、もちろん聞いたことがない。ただ、一つだけ記憶にあるのは……。
アランは、茂みに身を隠してじっと目をこらした。みんな頭巾をかぶっているように見えた。しかし、ずいぶん変な形の頭巾だ。しかも、小さな子供まで頭巾をかぶって居る。
「今夜はもう、ここで休む事にしよう」
今話したのは誰だろう。目だけ動かして広間を見た。男が立ち上がったので、この一団を引き連れているらしい人物の姿を確認することが出来た。長身でどちらかと言えば細身だが、やせぎすではない。かなり歳を取っているようだ。木々の間から差し込んだ月影に照らされて、男の白い髪が見えた。大泥棒にも、悪魔にも見えない。
「ボーデン、さっき渡った川で水をくんできてくれんか」
呼びかけられた男が立ち上がると、小さな陰が飛び上がるように続いた。「僕も行く!」
白髪の男はうなずいて「よし、行っておいで」と言った。
アランは、広場を離れ、川へ向かった二人の後をつけることにした。十年以上もこの森のそばで暮らしていたが、森の中を通る川があるなんて知らなかった。足音がしないように慎重に歩くと、なるほど、確かに川のせせらぎが聞こえる。「ボーデン!ほら、魚が居るよ!」少年のはしゃいだ声がして、それをたしなめる、男の野太い声がした。アランは、枝葉の裂け目から降り注ぐ月の光の中で、初めて彼らの姿を見、息をのんだ。