【イムラヴァ:一部】八章:クラナド-7
森を抜けると、城まで続く敷地一帯に朝霧が立ちこめていた。朝の光を吸い込んだ霧は、ぼんやりと光り、目をこらせばうねるように動いているのがわかった。晴れた日に森から城へ向かおうとすれば、見張りが見逃すことはまずあり得ない。なんと言っても、見張りが一番注意深く見ているのはまさにこの森の方角なのだから。ここでもたついていては、やがて霧も晴れてしまうだろう。それに明るくなってくる。アランは息を吸い込んだ。
「一か八か……行くしかないな」
森を飛び出して城へ向かった。一つ、二つ……声は上がらない。ぶらぶらと揺れる剣が重く、足に当たる。おぼろげに城の壁が見えてきた。もうすぐだ!最後の数歩を全速力で駆け抜けて、ようやく城の裏手の城壁にぶつかった。石の壁にへばりつくように寄りかかって、あがった息を整える間も、物音や話し声は聞こえない。良かった。誰にも見つからずにすんだ。喜ぶべき事ではないのはわかっていたが、今日は見張りの怠慢と濃くたちこめる霧に感謝しないわけにはいかなかった。アランはそのまま壁伝いに歩いて、下働きの者が使う通用門から中へ入る。ここの入り口がいつも開いたままになっているのは知っていた。錆び付いた蝶番が鳴らないようにこっそりと戸を開け、素早くしめる。一度、城内に入ってしまえば、誰かに見つかったとしてもどれほど怪しまれないだろう。おおっぴらに言えることではないが、下働きの女との逢い引きのために、夜遅くまで起きて城を歩き回っている者も少なくはない。しかも、出陣を控えた今は方々から男達が訪れている。風紀が乱れるのは覚悟しておかなければなら無いのだが、アランが部屋に引きこもるのには、そうした理由もあった。
アランは十五歳である。十五歳の健康な男子ならば、性交渉はおろか、結婚を考えてもおかしくない歳だ。そんなアランが、男達の猥談に加わることもなく、女達のなまめかしい目つきに誘われることもないというのは、他の男達から見ればいささか不自然に写るものだ。あらぬ噂が立つこともある。アランは、その好奇の視線を無視するのが面倒で、部屋にこもったのである。周りには、心に決めた人がいる、などと、体の言い嘘をついておいて。その相手がフィオナなのではないかという邪推にも、何とか耐えた。
今だって、男達の内の一人に、偶然であわないとも言えない。だらしなく口元をゆるませた男達と会うのが嫌で、急いで自分の部屋に向かった。中庭を取り囲む渡り廊下を足早に、足音を立てないように歩く。階段を上り、しばらくゆけば安全な自分の部屋に帰ることが出来る。しかし、そのアランを呼び止める声が暗がりから聞こえた。
「おい、お前」
口から心臓が飛び出るほど驚いた。背後から呼びかけた男は、おそらく他の領地からやってきたのだろう。この城の者で、アランに『お前』と呼びかける者など居ない。威厳と警戒をこめてゆっくりと振り向いた。
「何か?」
アランの目に映ったのは、見覚えのない男だった。たとえ見覚えがあっても誰なのかはわからなかっただろう。男は黒ずくめの格好をして暗がりに潜んでいたようだ。分厚い外套を着て、その下に何があるのかは判別しづらい。フードはあげないまま観察する。武器を持っていないと言い切ることが出来ないのは確かだった。不審者を見落とした自分を心の中でしかりつけて、アランは、外套の下でそっと、剣に手をかけた。
「失礼、この城は広いから、迷っちまってね。人を探してるんだが……あんた、名前は?」
「ウィリアム」アランはとっさに嘘をついた。ついてから、心の中でウィリアムに謝った。「ウィリアム・ウッドヴィル。あんたは?」言いながら、ウッドヴィルにも謝っておいた。
「俺は行商人だが。さる貴人からの手紙を預かっててね……ルウェレンってやつを探してるんだが」
アランの心臓は凍り付いた。「誰だって?」舌がもつれそうになる。平静を保つために、深く息を吸った。