【イムラヴァ:一部】七章:クリシュナ-3
部屋は、もぬけの殻だった。鍵が掛かっていた――クリシュナにとっては何の障害にもならないが――ところをみると、どうやら外へ出ているらしい。こんな時間に、女が外をほっつき歩く?しかし、いざ部屋の中を見てみると、女がここに暮らしているらしい痕跡は全く無かった。男の部屋につきものの臭さは染みついていない。にもかかわらず、そこにあるのは男物の服、飾り気のない家具。ただし、優遇されていることから、城での地位は高いようだ。部屋は広いし、必要なものは全てそろっている。手洗い桶に、質の良いガラス窓、寝心地の良さそうな寝台、そして暖炉――。その前にあるものに、クリシュナは目を見張った。
「こいつは――?」布の掛けられた球体は、どうやら何かの卵のようだ。それにしても、こんなでかい卵を産む鳥が居るはずがない。では、ドラゴンか?ドラゴンの卵は中身と共に成長し――聞くところによれば――最終的に6歳児ほどの大きさにまでなるらしいが、もしそうだった場合、卵には色鮮やかな模様が浮かび上がるそうだ。これは確かな話だが、トルヘアの貴族共の間では、西海の怪物共を剥製にして家に飾るのが流行っている。忍び込んだ屋敷の中でそれらしい物を見たことはあるが、いかにも死んだ動物をつなぎ合わせただけのまがい物だった。彼の笑いを誘ったのは、その剥製の横にあった鑑定書だった。大層なことに額にまで入れられた鑑定書には『この剥製は疑いの余地無く怪物のものである。国選博物学者・ナサニエル・シンクレア』と書かれていた。
しかし、とクリシュナは思った。こいつはまだ生まれても居ない。卵の剥製なんかあるわけはないし、確かに脈を打っている。どうやって手に入れた?どうやって手に入れたにしても、怪物の卵としか思えないものが現に、今、目の前にある。
西ノ海の怪物の中には、たった一匹でもガレオン船を海に沈めてしまうほどの威力を持っているものが居ると聞く。もし、これがこの島に、この森に解き放たれた場合、どういう事になるのか考えたくもない。森の中にはただでさえ狼や熊が居る。そして、彼や彼の仲間もいる。
「……ぶっ壊しちまうか」クリシュナは心の中でつぶやき、ゴクリと生唾を飲んだ。いや、しかし、そう言うことを決める前に、持ち主のことを石に聞いてみようと思い至った。目当てのものは、飾り気のない革紐に通された鷹目石だった。石自体はさほど珍しいものではないが、手を触れた瞬間、クリシュナの心に彼女の心が流れ込んできた。
じっと空を見つめて、飛ぶことを夢見ている、美しい一羽の鷹。何者にも縛られない彼女を地面に留めているのは、ひとえに彼女の無力さだけ。曇天は淡く輝き、その向こうに輝かしい太陽があることを教えている。そして、強い強い感情の波。それは炎のように燃えさかり、クリシュナの手を焦がした。彼は驚きに目を見開き、思わず床に落としてしまった石を見つめた。こんなに強い思念の宿った石に触れたことはない。逆に言えば、こんなに激しい心を持った人間にあったことがないのだ。
一体この女は何者だろう?男の服を着て、怪物の卵を持ち、そして身を焦がすような感情を胸に秘めている。
クリシュナは、しばらくの間呆然とその場に立っていた。
黒曜石の烏は、歌うのをやめていた。