【イムラヴァ:一部】五章:この日を忘れることが出来る日-3
「どう?」
アランが、流れるような素早さで一連の診察を行うイアンにおずおずと聞いた。アランは、今朝からこの馬がどうも落ち着きを無くしているというのでイアンに呼び出されたのだった。いや、しかし、おびえているのはブルックスだけではない。他の馬たちも多かれ少なかれ気が立っているようだった。イアンの表情は次第に曇ってきたが、診察の間は一言も口をきかなかった。アランの座る作業台まで戻って来ると言った。
「病気という訳じゃないな」
口数少なに、イアンはスツールに座って考え込んだ。桶の水で手を洗い、そのまま、ひどく疲れているようにみえる顔をこすった。
「じゃあ、どうして?こんな風になったブルックスは見たことがない」
「実はな、今朝は鶏が一羽も卵を産まなかったらしい」彼は言った。そして、アランの方を見ずに、厩の外に見える深い森にじっと視線を注いだ。「それに、牛も山羊も乳をださん。だが、看たところ病気をしている家畜は一匹もない」
「どうしてだろう。夜の間に、そんなにおびえることがあったのかな」アランは隣に座るイアンに習って考え込んだ。
「そういえば、今朝は羊を一頭やられたんじゃなかった?あれは狼の仕業なんだろ?それとも、巷を騒がせてる無法者の仕業かな」
アランの言う『無法者』とは、もちろんクリシュナのことだ。富める者から盗み、貧しい者に与える、いわば無法者の鑑。イアンは、アランの口調にもそんな崇拝めいた響きがあるのを感じたが、いまはそれをからかえるような心境ではなかった。どのみち、クリシュナの仕業ではない。彼が羊を一頭きり盗んだなんて話は聞いたことがない。彼が盗むのは金目の物、それも宝石の類と決まっているし、たとえ法を無視しているとは言え、内蔵も残さず羊を丸ごと一頭むさぼり食うなんて事は不可能だ。
では狼の仕業か?城の広い敷地の中では様々な家畜が飼われていた。しかし、いくら柵を頑丈に作ってもそれを狙ってやってくる狼の悪行は絶えることがなかった。先月も、その前も、羊や鶏が狼に食われてしまい、そのたびに城の動物がおびえてしまって、乳がでなかったり卵が生まれなくなったりするのだ。
イアンは、またしばらく黙っていたが、やがて重々しく切り出した。
「あれは狼でもない」
「じゃあ、何?」イアンがこんなに静かでいるのを、アランは見たことがなかった。不安を覚えずにいられない。
「昨日の夜……」彼はそこで言葉を切った。「翼の音がしなかったか?」
「翼の音?」アランは首をかしげた。「まさか、鳥が羊を食べたと思ってるの?」
アランは笑い出しそうになったが、イアンはむっつりと黙り込んだままだったので、急いで笑顔を引っ込めて言った。
「聞いてないよ。どっちにしろ、鳥の羽音なんか聞こえてもいちいち覚えてない。今日はどうしちゃったんだ。イアンまで、まるで鶏みたいにおびえてるじゃないか」
アランはイアンの肩に手を置いた。どんなに寒い日でも、ついさっきまで暖炉の前に居たのかと言うほど暖かい彼の体は、春を目前に控えた今日、信じられないほど冷たかった。