【イムラヴァ:一部】五章:この日を忘れることが出来る日-2
「なあ、そう言えば聞いたか?」朝食時の広間の喧噪に負けないように張り上げたアランの声が、何を思い出したのか急に高揚した。
「何を?」反対に、ウィリアムは沈んだ声で答えた。
「クリシュナだよ、ラシックに出たらしいぞ」広間にいた何人かがその言葉でアランの方を向いた。「ラシック村と言えばここから一週間もかからない」
「まるで、この村にも来てほしがってるように聞こえるな」アランの隣にいたジョン・ウッドヴィルがからかった。
「そりゃ来て欲しいさ!」アランは、たった今ウィリアムが、用を足す時にズボンを下ろすかどうか聞いたかのような目で見た。
クリシュナと言えば、トルヘア中にその名をとどろかせる大泥棒である。何年も前から国中で指名手配されているにもかかわらず、掴まることはおろか、役人の手が彼のマントを掠ったことすらない。盗みに入られるのは常に金持ちの家。しかし、金目の物を根こそぎ持って行くというわけでもない。彼の目当ては宝石だ。加熱するうわさ話に、城の女達も加わった。
「ドアの所に宝石をかけておいたら、私の部屋に来てくれるかしら」
「鳥を捕まえるみたいに、ドアの外から宝石を並べておくのよ。一つずつ拾っていって……最後の一つは寝台の中にね」女達の黄色い笑い声を聞きながら、ウィリアムはため息をついた。 クリシュナとかいう男が女達にもてはやされるのには理由がある。噂では、彼は相当の美男らしい。村中に貼られた人相書きを描かされた画家は、彼を恐ろしげに描こうと努力したようだ。浅黒い顔、胡乱な隻眼、獣のようにもつれた黒く長い髪。しかし、その人相書きは、今や村中の女達のベッドの脇に貼られている。ウィリアムは横目でアランを見た。
「この城に入ってきたら、とっつかまえてから、いろんな話を聞き出そう」彼――いや、彼女の目が輝いているのが、大悪党に恋をしたからではないと自分に言い聞かせたかった。
「クリシュナはトルヘア中をまわってるんだ。きっといろんな事を知ってるよな。引き渡すのはそれからで良いだろう?ついでに、宝石の隠し場所なんか聞き出せたりして……」
それから、話題はトルヘアの周辺の海に出没する海賊達の話にうつった。自分たちをヘルレキヌスの船団と称する、怪物を物ともしない、荒ぶる海の男達の話。トルヘアの商船をたびたび襲うという彼らの話題は、トルヘアに虐げられる、元エレン人にとっては良い気晴らしだった。アランの瞳は依然きらきらと輝いている。
いや。ウィリアムは思った。彼女の心の中にあるのは、恋などではない。ただひたすらに、冒険を求めているだけだ。城壁をとり囲む森、その二重の牢獄の先に広がる、広い世界への憧れ。誰にも――アラン自身にも――抑えることの出来ない強い思いが、彼女の中で日に日に大きくなっていた。アランが気づかないうちに。そして、彼女を世界へと導く風も、日に日に強くなっていく。アランも気づかないうちに。
アランが恐れていた事態が起こったのは、同じ日の午後だった。
彼らが到着した時、アランは老イアンの所にいた。藁の布団の上で、不安げな声を上げ横たわるカレンの耳の後ろをぼんやりと撫でながら、老イアンが自分の馬を診察するのを見ていたのだ。ブルックスは、気性の穏やかな雄の葦毛だ。彼は毛艶もよく、長い睫に縁取られた黒い目が宝石のような美しい馬だったが、今は不安げに鼻を鳴らし、荒い息を吐きながら神経質そうに足踏みをしていた。