【イムラヴァ:第一部】四章:気高き翼の音-1
第四章:気高き翼の音
風をつかむ。大気の流れ、風の堅さ、雲の冷たさは、大きく広げた両の手に取るようにわかった。その気になればどこまででも上昇することが出来るとわかっていた。あるいは、身のすくような急降下をして、頭からつま先まで突き抜けるような旋律を味わうことも思いのままだと。生まれたての綿のような、柔らかそうな雲を抜け、潮騒のとどろく大海原を眼下に、彼女は飛び続けた。
海が歌っている。
「我はゆく 静寂の森を抜け
暁と夜とを結ぶ道を辿り
潮騒の歌聞きながら
海の果てへと船出するのだ
島また島を渡り どこへでもゆく
風の導くままに
あの城を 再び見ることがあろうか
懐かしい歌を 再び耳にすることがあろうか」
頭上には雲が、下には海があり、彼女は空にいた。頭の中にあるのは、ただ飛び続けたいという思いだけ。何時間でも、何日でも、永遠にでも。
――でも、何のために?
「我はゆく 安寧の日々を捨て
二度とまみゆる事能わずとも
嘆くなかれ 母よ
今日より海が我の母
その御手に若き玉の緒預け
あなたの子は 不帰の船出
あの城を 再び見ることはあるまい
懐かしい歌を 再び耳にすることはあるまい」
とても懐かしい声だ。心地よい低音にあわせて、彼女は踊るように飛んだ。
太陽が、空を、雲を、風を金色に染める。円かなる天蓋の背後から忍び寄る宵闇も、彼女をとらえることは出来ない。誰にも彼女の翼を奪うことは出来ない。それでも、彼女は飛び続ける。闇から逃れようと。更に遠くへ行こうと。
「今日という日を嘆く無かれ 父よ
あなたの子は 今日 不帰の船出
風のご加護があったなら
いつかはまた 逢うことも叶うはず
西の果て――」
「坊ちゃま!!」
がくんと落ちる感覚に、心臓を鷲掴みにされて飛び起きた。家政婦のアガサ婆がドアを叩く音が聞こえる。ひどく切迫している。
「アラン坊ちゃま!起きてくださいまし!」
アランは驚きに冴えた目をしばたいて窓の外を見た。東の空はかすかに青みを帯びてきているものの、朝と言うにはまだ早い。
「どうした?賊が入ったか!」
待ちかねたぞ!とでも言いたそうな声。アガサ婆があきれながらも言った。
「物騒なことおっしゃらないでくださいまし、旦那様がお呼びでございますよ。書斎でお待ちになっておられます」
その『物騒なこと』を口にするだけで済んだのだから御の字だと思ってるだろうな。アランは思った。アガサ婆は芯の強い女性だし、アランを大切に思って世話をしてくれたが、アランの物騒な悪戯には、昔からかなり悩まされたはずだ。いや、今でも悩まされているかも。
「そうか、ありがとう」そう言うと、急いでさらしを巻いて服を着込んだ。何年も繰り返してきた朝の仕事だ。
アランの部屋は西向きの塔の二階にある。窓から見える庭の芝生に、朝には、ずんぐりとした巨人が腰を下ろしたような陰が、城壁のあたりまでずっと伸びているのが見え、夕方には、陽光の最後の欠片が、城壁の旗柱から消えるのを見ることが出来た。もっとも、アランがそんな時間にこの部屋でおとなしく夕日を見ていたことなど無かったが。彼女は窓の外をもう一度見た。