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【イムラヴァ】
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【イムラヴァ:第一部】 一章:移民の船-1

第一章 移民の船



天光教歴1290年 樫の月



 少女は甲板に出た。狭い船室に重なり合うようにして横たわって眠る人々が発する、篭った匂いから抜け出したかった。絶えずどこかから聞こえるすすり泣きは、夢の中のものなのか、それとも現実のものなのかもはっきりとしない。甲板の上では、何人もの水夫たちが夜も休まず動き回っていた。船乗り達は彼女のことなど気にもとめなかったが、常に誰かしらの視線が、自分に注がれているのを、彼女は感じていた。監視のため、それに、彼らの好奇心を満足させるためだ。手すりを乗り越えて、真っ暗な海の底に沈んでしまわぬ限り、この船と、彼らの視線から逃げ出すことは出来ない。彼女を捕らえる視線の主達は、彼女が身投げなどしないことを知っていた。本当ならば、父と母の後を追って潔く自害すべきだったのかもしれない。浅ましく生き延びるこの身を恥ずかしく思うべきなのかもしれない。すくなくとも、敵の兵士達はそう思っていただろう。それでも命を絶つことは出来ない。その理由は、重ねて置かれた彼女の両手の下、その柔らかで暖かい、幽かなふくらみの中にある。

 少女はそそくさと、バルコニーのような船尾楼にのぼり、手すりに寄りかかって腰を下ろした。風は穏やかで、冷たい。もう少しすれば、凍えるようになるだろうが、今の今まで蒸し暑い船室にじっとしていたから、少し寒いくらいがちょうどいい。呟くような竜骨の軋みが、潮騒と混ざり合って子守歌のようだ。

 まだあどけなさの残る横顔を淡い月明かりに照らされて、若さのヴェールの下に隠されていた険しさが露わになった。長旅ですっかり汚れてしまったが、その顔には確かに、今は亡き王と王妃の面影があった。とらわれの身となった彼女の未来は、船の行き着く先で待つ男が握っている。ゲオルギウス一世。彼女の祖国、エレンに牙をむいたトルヘア王国の王だ。城壁の下に、波のように押し寄せた戦旗のはためきと、その隙間から覗く甲冑のギラギラした輝きを、彼女は一生忘れないだろう。彼女の父と母を殺しその返り血を受けた獅子の紋章を、一生憎み続けるだろう。彼女も、そして、故郷を無くした民草たちも。

彼女の乳母が首に巻きつけてくれた袋には、疫病避けの薬草が入っていて、かすかに鼻につんと来る芳しい香りがしていた。それでも、大気に満ちる海の香りを消してしまえるほどではない。新鮮な潮の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。この香りは、きっと陸に上がってもそう簡単には忘れることは出来まい。アラノア王女は、お世辞にも綺麗とは言えない毛布で自分の体を包んだ。それが、無敵の鎧であるかのように。

 船のどこかで時折上がる、海の男の荒っぽい悪態にも、冷たい潮風にも頓着せず、平和な眠りの中に、まだ見ぬ彼女の子供の心はあった。蒸し暑い船室で眠ったせいで火照った額に、髪が張り付いている。彼女は金の絹糸のような髪をそっと持ち上げ、首の薬草袋を持ち上げて、その下の汗を拭いた。ずっしりとした重みと、温もり、そして何より、この子の存在が彼女の心を慰め、奮い立たせた。月明かりに照らされた柔らかなふくらみに、彼女は心の中で優しく口づけをした。



「ぼくはあの船に乗っていく 母さん 母さん

 僕はあの船に乗っていく 海のかなたへ行ってしまおう」



船の軋みと、それに答えるような波の音の合間に、物悲しげな歌声が聞こえてきた。続いて、甲高いパイプ、そしてフィドルの音色が歌を追いかける。水夫達の、夜の楽しみが始まったのだ。彼らは、船首近くの甲板に何人か集まって座っていた。日中の彼らの働きぶりからは、あんな甘い声が出せるなんて想像も出来ないが、昼とは明らかに表情の違う喧噪の中で、水夫達の荒々しさはなりを潜めたように見えた。まるで、ここは月の女王の庭で、不作法を働くことは許されないと思ってでもいるようだ。


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