【イムラヴァ】 序章:エレンの浜-1
序章 エレンの浜
天光暦1887年 松の月
薄明かりの中、頭も背中もすっかり丸くなってしまった老人が、彼を取り囲む者たちの目を順繰りにのぞきこんでいった。ある者は酒に顔を赤らめ、ある者は、藁の入った麻袋にふんぞり返ってどっかりと座っていた。黒い目の者も、青い目の者も、緑も、灰色もいる。しかし彼らの目と耳は、骨が軋む音から、ロープを渡る鼠の足音さえ聞こえようかというくらい一心に、目の前の小柄な老人に向けられていた。
薄汚れた木の床の上に円になって座る男達の姿を、錆びたカンテラが照らし出した。それはまるで、こことは違うどこか別の場所、別の時代で、彼らの祖先がしたのと全く同じ事が、この、薄汚れた船室で再び行われようとしている、不思議な普遍性を感じさせる光景だった。老人は息をつくと、針金のようなゴマ髭の下で微かに微笑んで、こんな風に語り始めた。
――昔、昔の話。わしがお袋の目の中のちいちゃな輝きだった頃よりも、もっと昔。そんな昔の話のことを、わしが知っとるはずは無いと思うだろうが、確かにわしは知っている。炉辺の炎が赤いのと同じに、月が青白いのと同じに確かな事、わしの血の中に、エレンの血が流れとるのと同じくらい確かなことよ。この話が生まれたのはずっとずっと昔、大昔のことじゃ。王様と、お妃と、騎士と、魔法使いと、それから沢山の獣達が、同じ言葉で話していた時代の話。蜜の川と、歌う風と、黄金の野が当たり前にあった時代の話よ。
老人はゆっくりと語り始めた。決して大きくは無いが、誰一人として聞き漏らすことの無い声で。
「悲しい話なのかい」と誰かが聞いた。
「悲しい話だ」老人は答えた。「何かを失う物語ほど、心に残るものは無いのさ」と。
そして老人は語り始める。その瞳を、薄い暗闇の向こうを透かし見るようにじっと据えながら。
彼の目の輝きを取り囲む男達の輪。それを包む、散らかった大きな部屋。隙間なくつるされたハンモックが揺れる様が、ぼんやりと浮かび上がっている。穏やかな揺れにあわせて、空の酒瓶やコップがごろごろと床の上を転がる音がした。
その部屋の隣には、人の居ない部屋、鼠や、虫たちがひしめく部屋。お偉い将校さんがさっさと床に着いていれば、いびきが響いているはずの部屋。
彼らの下には沢山の小麦や、藁や、酒樽が積まれた船倉があり、上には星影に照らされた甲板があった。彼らの船を、真っ黒な波が優しく揺らし、ゆっくりと、しかし着実に、次の港へと導いていた。
語り手は語る。麗しい英雄が輝かしい勝利を手にするような、喜びの物語が星の数ほどこの世にあるとすれば、悲しみの物語は、その全ての星に住む、全ての魚と同じほどの数がある。想像してみるがいい、と。
その言葉に、大きな船の眠れぬ水夫達は目を一層輝かせ、ある者は、低い天井を心の目で透かして、星の海を思い浮かべてみたりした。
老いたは歌い始める。